人形佐七捕物帳(巻十六) [#地から2字上げ]横溝正史   目次  百物語の夜  二人亀之助  きつねの宗丹《そうたん》  くらげ大尽  座頭の鈴     百物語の夜  怪談十二カ月   ——いまにも死霊の乗りうつりそうな顔だ  またしても人形佐七の手柄話。  しかも、この度は、うまいぐあいにその場に居あわせた佐七が、奇々怪々な事件のなぞをそくざにといてお目にかけようという、胸のすくような捕り物奇談である。  江戸時代——わけても文化文政年間は、怪談物の全盛時代で、夏場になると、芝居であろうが、草双紙であろうが、高座の落語であろうが、ヒュードロドロと幽霊が化けてでないことには、いっぱん民衆は承知できなかったものである。  この流行は、しだいに武家屋敷や町家《ちょうか》にまでおよんで、しまいには素人衆のあいだでも、夏の暑気ばらいとしょうして、あちこちで百物語というのが催された。  百物語というのは、つまり、ヒュードロドロの幽霊話の披露会《ひろうかい》である。  あつまったひとのかずだけろうそくをともしておいて、さて、各自がとっておきのものすごいところを、一席ずつ披露する。  そして、一席すむたびに、ひとつずつろうそくを消していくという趣向だが、さて、さいごに真打ちの話がおわって、ろうそくがことごとく吹き消されたときには、なにがさて、さんざ気味悪いところを聞かされたあとのことだから、鬼気|凄然《せいぜん》として一座をおおい、どんな肝っ玉のふといひとでも、ゾッと身震いがでるという話である。  さて、これからお話ししようというのは、この百物語の席上でおこった事件だが、ここに赤坂|桐畑《きりばた》に篠崎鵬斎《しのざきほうさい》翁という旗本のご隠居がすんでいる。  もとは幕府のお納戸頭かなにかつとめたご仁で、屋敷は赤坂表町にあり、そうとうのご大身だが、いまでは家督を一子|光之助《みつのすけ》というかたにゆずり、この桐畑で楽隠居。  根がいたっての風流人ときているので、つきあいもひろく、ときどきかわった趣向をこらしてあそぶのをなによりの楽しみとしているご老人だが、その鵬斎のおもいついたのが、こよいの百物語という催しで。  数奇をこらした桐畑の隠居所には、主客あわせてすでに九人あつまっているが、予定よりまだ三人足りない。  あるじの鵬斎翁はまゆをひそめて、 「これこれ、神崎殿。佐七はひどくおそいが、かならずまいるであろうな」 「はい、五つ(午後八時)までにはかならずまいると申しておりましたが、はて、どうしたものでしょうな。なにかさしつかえがあったのかな」  と、おなじようにまゆをひそめたのは、おなじみの与力|神崎甚五郎《かんざきじんごろう》。してみると、こよいの百物語には甚五郎や佐七もまねかれているとみえる。 「さしつかえがあったでは困る。こよいの趣向は、怪談十二カ月というつもりゆえ、ぜひ十二人そろえたい。あの三人が欠けたのでは、せっかくの趣向もおもしろくない」 「いや、その気づかいにはおよびますまい。約束のいたってかたい男ゆえ、まいるといえばきっとまいりましょう。まあ、もうすこしお待ちください」  といっているところへ、うわさをすればかげとやらで、 「ええ。みなさん、おそくなってもうしわけございません」  と、その場へ顔をだしたのは、お待ちかねの人形佐七。  例によって、きんちゃくの辰とうらなりの豆六が太刀持ち、露払いといったかっこうでくっついている。 「おお、佐七か、おそかったではないか。そのほうの姿がみえぬので、ご主人はだいぶおむずかりだ」 「はっはっは、そういうわけではないが、年をとるとどうも気がみじかくなってな。いや、よいよい、三人の顔さえみればいうことはない」  と、鵬斎翁もすっかりきげんをなおして、 「さあ、これで趣向どおり、十二カ月あつまったというわけだが、百物語にはいるまえに、いちおう、みなさんをお引き合わせしておこう。なかにはだいぶ顔見知りでないご仁もあるでな」  と、そこで鵬斎翁の紹介で、いちいち名乗りをあげた人物というのは——。  まず、だいいちが鵬斎翁のご子息で、いま篠崎《しのざき》の家督をついでいる光之助。  当時お納戸方につとめている眉目《びもく》秀麗な若侍で、としは二十二、三というところだろう。  そのつぎは、磯貝《いそがい》秋帆といって有名な剣客。  年輩は四十前後、妻恋坂にある磯貝道場の名は、天下に喧伝《けんでん》されているから、佐七ももちろんその名は知っていた。  さて、つぎはすこしかわった人物で、これはちかごろとみになだかくなった怪談作者で、宝井喜三治という男。  年輩は三十二、三の苦みばしった男振りだが、世間では本名より、お化け師匠でとおっている。べつに喜三治のうちにお化けがでるというわけではなく、ヒュードロドロのお化け狂言がとくいだから、ひと呼んでお化け師匠。  あまりありがたいあだ名じゃない。  四人目はこれまたかわった人物で、当時なだかい寄席《よせ》芸人、その名を亀廼家亀次郎《かめのやかめじろう》といって、声色の吹き寄せ、百面相、また、夏場になると幽霊話もやろうというしごく器用な芸人だが、むかしは武家屋敷に奉公していたこともあるとやらで、どこかものがたいところもある人物。  としは五十ちかくだろう。  以上四人にあるじの鵬斎、それに神崎甚五郎と佐七の一味三人をくわえた九人が男で、あとの三人は女である。  さて、その女というのは——  まずだいいちは、綾乃《あやの》といって、としのころは十八、九、ひとめで武家屋敷の娘としれるかっこうだが、鵬斎翁の紹介によると、知人の息女であるという。  それにしても、ものがたい武家の娘が、どうしてこんな会合へでる気になったのか、佐七はちょっと妙な気がした。  なにかおもしろい話でも知っているのかと思ったが、あとになって、そうでもないことがわかったから、佐七はいよいよ変な気がしたものである。  それはさておき、第二の女だが、これは佐七もよく知っている。  小菊といって柳橋でもなうての芸者、としは二十三というから、すこし薹《とう》はたっているが、意地と張りとで、押しもおされもせぬ一流芸者。  さて、いよいよさいごにのこったひとりだが、おそらくこれが当夜における圧巻だったろう。変わったというもおろかなこと、佐七をはじめ辰と豆六も、この女の姿をみたときには、おもわず目をそばだてたものである。  女の名は薬子《くすこ》といって、巫女《みこ》——つまり、死人の口寄せなどする市子だ。  としは五十過ぎだろう。緋《ひ》の長袴《ながばかま》をはき、口寄せにつかうあずさ弓をかたてにもって、端然とすわっている。顔はさしてみにくくはないが、白髪まじりの髪をおさげにして、くぼんだ目をギラギラさせているところは、いまにも死霊がのりうつりそう。  辰と豆六はきみわるそうに顔を見あわせている。  幽霊のことづけぶみ   ——お化け師匠の顔色がさっと変わった  これで一座十二人、あらかた紹介がおわったわけだが、それにしても、よりによってかわった人物ばかり集めたものと、佐七は内心舌をまいて感服していたが、鵬斎翁はこの人選がだいぶとくいらしく、 「さあさあ、これで顔つなぎもすんだから、これからいよいよ百物語だが、こいつはひとつくじ引きで順番をきめることにしようじゃないか」  と、かねて用意のこよりをひくと、話をする順序はつぎのとおりにきまったのである。 [#ここから2字下げ] 一月 人形佐七 二月 きんちゃくの辰五郎 三月 うらなりの豆六 四月 神崎甚五郎 五月 芸者小菊 六月 お化け師匠宝井喜三治 七月 剣客磯貝秋帆 八月 落語家亀廼家亀次郎 九月 娘綾乃 十月 篠崎光之助 十一月 巫女薬子 十二月 篠崎鵬斎翁 [#ここで字下げ終わり]  佐七はこの順番になんだか妙な気がしたが、鵬斎翁もそれに気づいたらしく、 「おやおや、これじゃ今夜の花形、佐七がいちばん前座ということになるじゃアないか。どうだ、もういちどくじをひきなおそうか」 「いえ、これでけっこうでございます。くじというものは、引きなおしたりしないものだそうで」 「さようか。そちがそういうなら致しかたがない。それではみんな、この順番にならんでもらおうか」  鵬斎のことばに一同は座をたつと、くじの順番に席をこしらえた。  なんせ十二畳と十畳をぶちぬいたひろい部屋のなかに、十二人の主客がばらりと散ったのだから、ひとりひとりの間隔はかなり開いている。  やがて、そのあいだへ一本ずつ燭台《しょくだい》が持ちだされると、ほかの行灯《あんどん》はぜんぶ吹き消された。  二十二畳の畳数に、ろうそくが十二本、それもポツポツまをひらいて立っているのだから、座敷のなかは怪談がはじまるまえからすでに、おどろおどろしき空気につつまれている。 「さあ、いよいよ席もきまったから、それでは佐七に皮切りをしてもらおうか。おっと忘れていた。あとからきた三人にはまだいわなかったが、話がすむとひとりずつろうそくを吹き消して、それからむこうの離れ座敷へいって、鏡をのぞいてくることになっているんだが、いいだろうね」  これまた、百物語によくある趣向だから、佐七をはじめ辰と豆六もうなずくと、やがて佐七がおもむろにひざをすすめた。 「それじゃ、わたしがごめんこうむって、前座をつとめることにいたしましょう」  と、そこで佐七が話したのは、いつか諸君も読まれるだろう『お玉が池』の物語。 「と、そういうわけで、わたしどもの話は、はじめはいくらか怪談じみておりましても、筋を運ぶにしたがって、しりがわれてくるので困ります。わたしの話しはまあこれくらいで勘弁していただきとうございますが、ここにもうひとつ妙な話がございます。それも今晩、ここへくる途中でおこったことなので、それをおまけにもうひとつお話しいたしましょう」  と、佐七がひざをすすめたから、一同はおもわず利き耳をたてた。 「ここへくる途中、わたしどもは溜池《ためいけ》のそばをとおりました。みなさまもご存じのとおり、あのへんは昼でも寂しいところでございます。わたしはそこをとおりながら、辰や豆六にむかって、どうだ、ここは怪談におあつらえむきの場所じゃないか。この葭《よし》のなかから、ヒュードロドロとお化けでもあらわれたら、それこそ宝井の師匠の話の種だぜ、などと冗談をいっておりました。ところが、わたしの言葉もおわらぬうちに、葭のなかからぬっとあらわれましたので」 「ひえっ、あらわれたというのはなんですかえ」  むこうのほうから亀廼家亀次郎が、とんきょうな声であいづちをうった。 「さあ、なんですか、わたしにもよくわかりません。髪をこうさんばらにした若い男で、体じゅう水びたしになっておりました。それがかぼそい声で、親分さん、お玉が池の親分さん、と、こうわたしを呼びとめるのでございます」 「へへえ?」  こんどはお化け師匠の宝井喜三治が、おもしろそうにひざを乗りだした。 「それからどうしました」 「わたしもこれにはぎょっとしました。おまえさんはなんだいと尋ねましたが、あいてはそれに答えようとはしないで、親分さんはこれから、鵬斎翁の百物語においでになるのだろうと、こう尋ねます。そうだと答えると、それではすみませんが、これを宝井の師匠にお手渡しをしてくれと……ほら、この手紙をわたしにわたしますと、そのまままた、葭《よし》のなかへ消えてしまいましたので」  と、ふところから取りだしたのは一通の結びぶみ。  これには喜三治も驚いて、 「えっ、わたしに手紙ですって?」 「はい、さようで」 「いったい、あいてはどのような男でございました」 「それがいまも言ったとおり、全身水びたしになった若い男で、髪をこうさんばらにして……そうそう、片目がスーッとたてに切られたようにつぶれておりました」  それを聞くと、喜三治はにわかにガタガタ震えだした。  佐七はその様子をみながら、 「師匠はそういう男に心当たりがありますか」 「め、滅相もない。そして、その男はどういたしました」 「それがさっきもいうとおり、葭のなかへ消えてしまって、それきり姿はみえません」 「おやおや。すると、さしずめ、幽霊というわけですが。いや、さすがはお化け師匠だ。幽霊とおつきあいがあるなどとはおうらやましい」  と、これは落語家《はなしか》の亀廼家亀次郎、わざとおどけた調子でいったが、だれも笑うものはない。なんとなくしらけたその場の空気に、佐七は頭をかきながら、 「いや、これはよけいなことをいって、みなさんのお話のじゃまをいたしました。それでは、わたしの話はこれだけです」  と、かたわらのろうそくを吹き消すと、約束どおり、座敷をでて、離れにしつらえた鏡をのぞきにいったが、そのとちゅうで、妙な男からことづかった結びぶみを、宝井喜三治にわたしてやった。  喜三治の席は、ちょうど離れへいくわたり廊下への出口のそばにある。  ところが、ことのきの喜三治のようすというのがまことに妙だった。  わなわなと震える手先で結びぶみをひらいた喜三治は、ひとめそれをひらいて読むと、ふいにさっと顔色がかわったのである。  まるで目にみえぬものから逃れようとするように、はんぶん腰をあげたが、ふたたび力なくその場にすわると、それきりがっくり肩をおとしてうつむいてしまった。  やみの中からたまげる声   ——薬子の梓弓《あずさゆみ》がブーンと鳴った  さて、その後はなにごともなく、きんちゃくの辰からうらなりの豆六、神崎甚五郎から芸者の小菊と、百物語はしだいにすすんで、そのたびにろうそくが一本ずつ吹き消されていく。やがて、いよいよお化け師匠の宝井喜三治の番になった。  なにがさて、いま評判のお化け師匠、怪談を書かせるとその右にでるものなしとまでいわれた喜三治のことだから、どのようなものすごい話がとびだすかと、一同かたずをのんでひかえていたが、どうしたものが、その夜の喜三治はさっぱり元気がなかった。 「わたしはいたって口無調法なほうで……」  と、みずから最初にことわったとおり、話をきいてもおもしろくもおかしくもない。  本で読むとあれほどものすごいお化け師匠も、口でしゃべるとこうも違うものかと、一同いささか興ざめがおだったが、それでもともかく、一席お茶をにごすと、喜三治はろうそくを吹き消して、はなれ座敷へ鏡をのぞきにでていった。  あとは一同、しらけた気持ちでひかえている。なかでもあるじの鵬斎翁は、喜三治の話にいちばん期待していただけあって、にがりきった顔色だ。  一席おわるごとにうまく調子をあわせていた亀次郎も、こんどは興ざめがおに茶ばかりすすっている。  ろうそくはすでにはんぶん吹き消されて、ひろい座敷ははんぶんいんきなやみにつつまれて……。  ——と、このときだった。  はなれ座敷にあたって、きゃっとたまげるような悲鳴、たしかに喜三治の声だった。  さきほどから、なんとなく胸騒ぎをおぼえていた佐七は、それをきくとすわこそと腰をうかしたが、それよりはやく席を立っていたのは亀廼家亀次郎。 「おやおや、お化け師匠め、話があまりまずかったので、お芝居で埋め合わせをするつもりとみえる。どれ、あっしがようすをみてきましょう」  あざわらうようにそういうと、どたどた廊下へでていったが、それにつづいて立ち上がったのは剣客の磯貝秋帆。 「よし、拙者もいこう」  と、ふたりづれではなれ座敷のほうへいったが、やがてもどってきたところをみると、喜三治のからだを左右から抱えるように支えている。 「おや、師匠、どうかしたのか」  鵬斎翁はおどろいたようにこちらから声をかけた。 「いえね、だんな、いまはなれ座敷へいってみると、師匠がひっくりかえっておりますので、びっくりして磯貝様とふたりで連れてまいりました」  喜三治はふたりにかかえられたまま、うす暗い片すみによろよろとすわると、 「いや、面目しだいもございません。すこし気分がわるくなりまして……」  と、それきり無言でうつむいてしまった。  これでまた、一座は少ししらけかかったが、それを救うように磯貝秋帆。 「こんどは拙者の番であったな。ではひとつ、くだらないところを披露《ひろう》しようか」  と、これは武術修業の途中でであった妖怪《ようかい》退治の武勇談をひとくさり演じたが、さてそのあとが亀廼家亀次郎。なにしろ、これは本職だから、身振り手振りもものすごく、おそらくこれが当夜の傑作だったろう。  これで八人まですんだわけで、そのあとは娘綾乃に篠崎光之助。それから巫女《みこ》の薬子が、いっぷうかわった怪談を披露すると、いよいよどんじりは隠居の鵬斎翁。  すでにろうそくは十一本まで吹き消されて、あとには鵬斎のそばに一本残っているきり、ひろい座敷は夢魔のようなやみにつつまれて、人々の顔もしかとはみわけられない。  一同が期待にみちたひとみをあつめると、鵬斎は咳《がい》一番。 「どうもおれが真打ちというのはおもはゆいが、これもくじ順だからいたしかたがない。それではお話しするが、この話はひょっとすると、さきほど佐七の話したことと関係がありはしないかと思う」  と、そこで鵬斎翁が話したのは、つぎのような物語だった。  去年の秋のことである。  鵬斎翁は溜池《ためいけ》へつりにでかけた。つり場のすくない山の手では、溜池ぐらいがせいぜいつりずきの渇をいやしてくれるのである。鵬斎翁は葭《よし》のしげみにわけいって、つりざをを垂れていたが、そのうちに、そのころの天気ぐせとしてポツポツ雨が落ちてきた。  雨具の用意をしていなかった鵬斎翁は、よほど引きあげようかと思ったが、ちょうどそのころから食いにかかったので、なかなか思い切りがつかない。  もう一尾、もう一尾と、これがつり師のわるいくせで、腰をあげかねていると、そのときどこかで、きゃっというような悲鳴がきこえた。と思うと、ドボーンと水の音。  鵬斎翁ははっとして立ちあがったが、なにせ、いちめんに茂った葭のなかで見晴らしがきかない。それでも鵬斎翁は立ったまま、じっと利き耳を立てていたが、すると、ゆらゆらと大きな波紋が水面にひろがってきた。ざざざざざと、葭をわけていく足音。  姿は見えないが、たしかにだれかが近くにいたのだ。  それにしても、この波紋はどうしのだろうと、鵬斎翁は水面をみつめていたが、そのうちにぎょっと息をのみこんだのである。  黒いどろ水にまじって、雲のように流れてきたのは、たしかにあかい血潮である。血はあとからあとからわくように流れてくる。鵬斎翁はそれをみると、つり場をすてて、あわてて葭のなかへわけいった。 「ところがなんと、わしがつりをしていた場所から、半町とはなれぬ葭の水たまりに、わかい男が倒れているではないか。わしはあわててそのからだを抱き起こしたが、むざんにも胸をえぐられて、すでに息は絶えている。ところで、いまの佐七の話で思いだしたのだが、その男の片目が縦にすうっと切られていたので……」  と、鵬斎翁の話に、佐七はおもわずひざをすすめた。 「ほほう。そして、だんなはその死体をどういたしました」 「どうもしやアしない。掛かり合いになると面倒だから、そのまま葭のなかへほうってきたが、いまでもあのへんに骨になっているかもしれない。なにしろ、あのへんときたら、狐狸《こり》のほかにはめったに通るものもないからな」 「へへえ」  と、たまげたような声を立てたのは亀次郎。 「すると、さきほどお玉が池の親分がお出会いなすったのは、そのとき殺された男の幽霊というわけですかねえ」 「バカなことをいうものじゃない。さきほど佐七の出会った男は、お化け師匠に手紙をことづけたというじゃないか。幽霊から手紙が来るなんてことがあるものか」  磯貝秋帆はわらったが、鵬斎翁はまじめな顔をして、 「いや、その判断はおのおのの勝手だが、ともかくおれの話というのはそれきりだ。どうも締めくくりがなくて、お恥ずかしいが、どれ、それじゃ鏡をのぞいてこようか」  と、鵬斎翁がのこっていたろうそくを吹き消したから、ひろい座敷は鼻をつままれてもわからぬような漆のやみ。そのとたん、佐七はなんとも名状しがたい不安におそわれた。  なにかある!  この暗やみの底に、なにかしら、あやしい、恐ろしい、血なまぐさい犯罪のにおいがこもっている!  佐七の直感が、ピーンとそれを感じたときだ。  どこかでかたりと物の落ちる音、つづいてブーンと鳴ったのは、だれかが薬子の持った梓弓《あずさゆみ》をはじいたらしい。それにつづいてザワザワと、ひとしきりやみのなかにものの動く気配がきこえていたが、やがて、ウーンいうと気味悪いうめき声。  それをきくと、佐七はすっと立ち上がった。 「みなさん、いまのうめき声はなんでございます」  だれも答えるものはない。それでいて妙にザワザワともののうごめく気配だ。佐七は耐えられなくなった。 「みなさん、その場にじっとしていてくださいまし。辰、豆六、あかりをつけてみろ」 「へえ」  と、辰と豆六が、用意の火打ち石と付け木で、いっぽん、いっぽんろうそくに灯《ひ》をつけていくと、一同はちゃんと定めの席についている。しかし、その顔には、いちようにおびえたような表情がうかんでいた。 「佐七、どうしたのだ、なにごとが起こったのだ」 「あっ、神崎のだんな、あっしにもわかりませんが、気にかかるのはさっきのうめき声。あっ、あれはどうしたのです」  佐七のことばに、一同が指さされたほうをふりかえると、そこにはお化け師匠の宝井喜三治が、座ったままくわっと両眼をみはっている。しかも、その首筋からは、たらたらとひと筋の血が。 「あれえ?」  隣席にすわっていた芸者の小菊がとびのく拍子に、喜三治のからだはがっくり前へつんのめった。  それをみると鵬斎翁、スーッとながい息をうちへひいて目を閉じた。  怪談薄雪草紙   ——豆六は鼻高々と手柄顔で 「佐七、これはどうしたものだ。いったい、だれが喜三治を殺したのだ」 「だんな、それをこれから詮議《せんぎ》しようというのじゃありませんか。なに、下手人はまだ逃げちゃいません」 「それじゃ、下手人はこの百物語の仲間のものだと申すのか」 「それよりほかに考えようはございません。そいつはさいしょから、ろうそくが吹き消されて、まっ暗になるときを待っていたんですよ」  佐七のことばに、甚五郎をはじめとして、辰と豆六もおもわずすこし青ざめた。  ほかの連中はひとまず別間へひきとらせて、このひろい座敷には死骸《しがい》をとりかこんで四人きり。ろうそくの明滅する光もわびしく、外はどうやら雨になったらしい。びしょびしょという音が、いかにも変事のおこった夜にふさわしかった。 「あっしゃさいしょから、へんな気がしていたんです。なにか起こりそうに思っていたんです。しかし、まさか人殺しをやらかそうとは……」 「ふむ、われわれの面前で、こんなだいそれたことをしてのけようとは、よほど大胆なやつにちがいない。いったい、下手人は何者だろう」 「さあ、それをこれから探し出さねばなりませんが、こよい集まったのは十二人、そのうち殺された喜三治と、ここにいる四人を引いたあとの七人は、みないちおう疑ってかからねばなりません。だが、それより、喜三治のからだから調べてかかろうじゃありませんか。辰、豆六、死骸《しがい》をはだかにしてみろ」  辰と豆六はすぐ喜三治の着物をぬがせたが、そのとたん、一同はあっと目をみはった。  喜三治のうけた傷は、首筋ばかりではなかった。  背中に二つ、胸に一つ、わき腹に一つと、都合五つ、大小さまざまの突き傷だった。  そのほかに脾腹《ひばら》のあたりに黒い痣《あざ》、それにむちでなぐったようなみみずばれが背中に赤くできている。  あまり無惨なそのさまに、さすがの佐七もおもわず息をのんだ。 「ふうむ、ひどいことをしたもんだな」 「親分、これゃなんですぜ。くらやみのなかで見当がつかず、目茶目茶にえぐったものにちがいありませんぜ」 「そやそや、いちどではたよりないので、何度も何度もえぐりよったにちがいない」  そうかもしれなかった。だが、それだけでは説明しきれぬへんてこなものが、佐七の頭のなかにうずをまいていた。  佐七はくちびるをかみながら、しばらく死体をながめていたが、そのうちにふと目についたのは、座布団の下からのぞいているなにやらきらきら光るもの。  佐七がおやっと拾いあげると、それは平打ちの銀かんざし。しかも、そのかんざしの脚には、赤黒いものがこびりついている。いうまでもなく血だった。 「あっ、親分、こりゃたしかに綾乃という娘のかんざしですぜ」 「そやそや。わてもたしかに覚えてる。すると、あの娘が……」  佐七は無言のままかんざしの脚をながめていたが、なにを思ったのか、ポトリとそれを畳のうえに落としてみた。  かたり。——おもい銀かんざしはかたい音をたてて畳のうえに落ちたが、その音こそ、暗がりになったとき、佐七がさいしょにきいた物音にちがいなかった。  甚五郎もその音を覚えていたとみえ、 「おお、それじゃやっぱり綾乃どのが……」 「そうかもしれません。この背中にある傷は、たしかにかんざしの脚でさしたものにちがいありませんが、しかし、だんな、首筋の傷は、かんざしじゃありませんぜ。これは、よく切れる刃物でえぐったものです」 「なるほど。すると、下手人はふたりか?」 「そうですね。かんざしの傷と刃物の傷、傷口はふたいろあるところをみると、そう思われますが、まだまだふしぎなことがありますぜ。この脾腹《ひばら》にある痣《あざ》は、こりゃどうしたものでしょう」 「親分、その脾腹の痣は当て身というやつじゃありませんか」  甚五郎もそれにちがいないと断言した。  それはたしかに、こぶしでつよく当てられた跡にちがいなかったが、そうなると疑わしいのは剣客の磯貝秋帆。これだけみごとな当て身の腕を持っているのは、一座のなかに秋帆よりほかになかった。 「親分、すると下手人は三人で、秋帆もその仲間でっかいな」 「ふむ、どうもおかしいな。それに、このみみずばれだ。まだ新しいところをみると、ついいましがたできたものにちがいねえが……」  と、座敷のなかを見回していた佐七の目に、ふとうつったのは、薬子がおき忘れていった梓弓《あずさゆみ》、佐七がそれを手にとってみると、弦のところになまなましい血の跡が……佐七はそれをみると、ぎろりと目を光らせて、弓を逆手にしたたか死体のうえに振りおろしたが、とたんに、ブーンと弦が鳴って、死体にはおなじようなみみずばれができた。 「あっ。そうすると、さっきの音は……?」 「ふむ、薬子のやつが死体をなぐりゃアがったにちがいねえ」  と、これで傷口のいわれはあらかたわかったが、そのかわり、下手人はだれがだれやら、さっぱりわけがわからなくなった。  当て身をあてたのが秋帆で、みみずばれは巫子《みこ》の薬子、かんざしのあとは綾乃と、これではまるで七人のうちの三人までが下手人らしく思われるではないか。 「ちょっ、殺されたのが怪談作者だけあって、妙にこんがらがってきやアがった」  佐七はいまいましそうにつぶやいていたが、やがて思いだしたように、死骸《しがい》のたもとをさぐると、取りだしたのはさっき佐七がわたしが結びぶみ。佐七はしわをのばして読んでみたが、それはまことに妙な手紙だった。  巻き紙の裏と表に、べつべつの筆跡で書いてあるのだが、まず表のほうを読んでみると、  ——之助もそなたにすまぬすまぬと言い暮らしおり候。なんと申すもそなたこそは当家の嫡男、家督をつがすべきはそなた以外にはこれなき候まま、だれがなんと申そうとも、気を大きくもって帰宅つかまつるべく候。聞けば、そなたはちかごろ卑しき芸者と同棲《どうせい》致しおり候とのこと。それをききつたえて、綾……。  と、はじめと終わりの千切れた手紙からは、それだけの文句が読みとれたが、読んでいるうちに甚五郎の顔色がしだいにかわっていった。 「佐七、こりゃたしかに鵬斎翁の筆跡だぜ」 「えっ、それじゃ隠居の……」  佐七はおどろいたように辰と豆六と目をみかわしていたが、やがて裏をかえすと、別人の筆跡で、 [#ここから2字下げ]  ——折しも秋の夕まぐれ、ねぐらにいそぐ鳥の声も物寂しく、宇喜大尽はつれづれに、しずの伏屋《ふせや》を立ちいでしが、野辺のすすきもうら枯れて、吹く風さえも諸行無常の響きあり。大尽の足はおのずから、かの塚《つか》のほとりに向かいしに、そのとき忽然《こつぜん》としてあらわれしは、夢にもわすれぬ姫の姿。おお、そなたは早乙女《さおとめ》ではないか。—— [#ここで字下げ終わり]  と、この奇妙な文章はそこでプッツリ切れていたが、これをみると、こんどはうらなりの豆六が奇妙な声をあげた。 「あっ、親分、こら『薄雪草紙』の一節やおまへんか」 「なんだえ、その『薄雪草紙』というのは……?」 「あれ、親分はご存じおまへんのかいな。『薄雪草紙』ちゅうのんは、そこに殺されているお化け師匠がちかごろ著した草双紙、世間ではえらい評判だすがな」  草双紙通の豆六は、鼻高々といったものだが、さあ、わからなくなった。  鵬斎翁の手紙のうらに、なんだってまた喜三治の著書の一節が書いてあるのだろう。また、これをみて、喜三治はさっきなぜあのようにおどろいたのだろう。  鏡に映る幽霊の顔   ——家出をした嫡子又五郎の行方は 「神崎のだんな、ちょっとこちらへ顔をかしていただきとうございます」  しばらくしてから佐七がいった。 「ふむ、拙者になにか用事か」 「へえ。少々お尋ねいたしたいことがございますので。はなれのほうへまいりましょう。辰、豆六、おまえたちは死体のそばをはなれるな」  と、甚五郎をともなって、はなれ座敷へやってきた人形佐七、すこしあらたまった調子で、 「だんな。あなたは鵬斎翁様とはご昵懇《じっこん》の間柄でございましょうねえ」 「ふむ、長年わけへだてなく付き合いをねがっている」 「それじゃ、篠崎さんのお屋敷のご様子はよくおわかりと思いますが、この手紙はいったいだれにあてて書いたものでございましょうね」 「さればじゃ」  と、甚五郎はまゆをくもらせて、 「拙者の考えるのに、これはおおかた、又五郎どのにあてたものではないかと思う」 「又五郎さまとおっしゃると?」 「鵬斎翁のご嫡男、世が世であらば、当然篠崎の家督をつぐべきご仁じゃが、数年来ゆくえがしれない。家出をなされたのでな」 「なるほど。すると、光之助さまの兄さんにあたるわけですな」 「さよう、光之助どのには腹違いの兄にあたる。又五郎どのが家出をされたのも、じつはそのことが原因で、当時、光之助どのの生母、つまり鵬斎翁には後妻、又五郎どのには継母にあたるかたが生きていられた。又五郎どのは、そのかたに義理を立てて、家督を弟の光之助どのに譲るために家出をされたと申すこと」 「へへえ、よくあるやつですね。そして、だんなは、その又五郎どのとおっしゃるかたをよくご存じですかえ」 「ふむ、そのじぶん、拙者のもとへもよく遊びにきたものだ。いま生きていれば二十七、八歳にもなろうか、気性のやさしい、涙もろい若者だったな。そうそう、草双紙がなによりも好きでな。これには鵬斎翁もにがにがしく思われて、拙者もたのまれてたびたび意見をしたものだ」 「そして、家出をなされたのちは、どうしていらっしゃるかご存じありませんか」 「知らぬな。この手紙でみると、鵬斎翁は居所を知っていられるとみえるが、世間体をはじて内緒にしていられたのであろう。そうそう、家出をされた当座、なんでも下谷のほうにいる昔の乳母のもとに身を寄せていたということだが、その後はどうなされたか、とんとうわさをきいたことがない」  甚五郎はそこまで話して、ふと気がついたように、 「しかし、佐七、そのことがなにか、こよいの事件に関係があると申すのか」 「さようで。あっしの考えるのにゃ、その又五郎さんの家出の一件が、こんどの事件に尾をひいているにちがいございません」  佐七はくちびるをかみながら、じっとしばらく考え込んでいたが、そのときふと目についたのは、座敷のすみにすえてある鏡である。  それはさっき、百物語がおわったときに、ひとりひとりのぞきにきた鏡だが、佐七の念頭をそのときさっとかすめたのは、宝井喜三治がこの部屋で、きゃっと悲鳴をあげたことだ。喜三治はなにをあのようにおどろいたのだろう。  喜三治もこの鏡をのぞいたにちがいないが、そこになにか、かれに悲鳴をあげさせるような、かわったすがたでもうつったのだろうか。  佐七はぼんやり鏡のまえに立ってみたが、べつにかわったこともない。そこに映っているのは、おのれの胸からうえのすがたである。  佐七はまじまじと鏡のなかをながめていたが、そのとき、ふと目についたのは、そばにブラ下がっている一本のひも。  佐七はなにげなくそのひもをひっぱったが、とたんにぐらりと鏡がひっくり返ったが、と同時に、佐七と甚五郎のふたりは、あっと叫んでうしろにとびのいた。  それも道理、鏡のうらもまた鏡になっているのだが、そこにまざまざとうつっているのは、なんと片目のつぶれたさんばら髪の若者の顔。 「や、や、これは又五郎どの」 「えっ、それじゃこれが又五郎さんでございますか。だんな、あっしがさっき溜池《ためいけ》で出会ったのも、たしかにこのひとでございましたぜ」 「ふうむ。それにしても、このすがたは……」  甚五郎はゾッとしたようにあたりを見回したが、どこにも又五郎のすがたはみえない。それでいて鏡のなかにはちゃんと、ものすごいすがたがうつっているのである。  佐七はわらって、 「だんな、こりゃ寄席《よせ》などでよく使う手妻でさ。鏡のおきかたと黒幕で、よそにあるものがうつる仕掛けになっているんです」  佐七はあたりを見回していたが、やがて、がらりとかたわらの押し入れをひらくと、そこに立っているのは、ものすごい形相をした等身大の蝋人形《ろうにんぎょう》、甚五郎はぎょっとしたように二、三歩あとへとびのいたが、佐七はわらって、 「ごらんなさい。押し入れの天井にも鏡があります。この人形のすがたは、あの鏡にうつって、それからまた屋根うらの鏡にうつり、それがさっきの鏡にうつるのでございます」 「しかし……しかし……だれがこのようないたずらをしたのであろう」 「さあ、だれがしたのか知りませんが、さっき喜三治がこの部屋で悲鳴をあげたのは、こいつのすがたにおどろかされたからですよ。さあ、だんな、向こうへまいりましょう。これであらかたようすはわかりました」  佐七にはわかったかもしれないが、甚五郎にはさっぱりわからない。きょときょとしながら、もとの座敷へかえってくると、辰と豆六があいかわらず死体の番をしている。 「おお、ご苦労ご苦労。それじゃみなさんにもう一度、この座敷へきていただいてくれ」  佐七は自信満々たる顔色だ。  七人の容疑者   ——だれもかも又五郎に関係がある  やがて、辰と豆六の案内で、鵬斎翁をはじめとして、光之助、綾乃、秋帆、亀次郎、薬子、小菊と七人の容疑者が入ってくると、 「みなさん、お待たせいたしました。これからすこしお尋ねいたしたいことがございますから、どうぞ先程の席へおつきくださいまし」  一同は顔を見あわせながら、それでもいわれるままにさきほどの席につく。佐七をはじめこちらの四人も、もとの席に座をしめると、 「ええ、みなさん、このたびはまことにとんだことが出来《しゅったい》いたしました。みなさんもさぞご迷惑でございましょうが、神崎さまやわたしがこの場に居合わせたのもなにかの因縁、さっそくここで下手人の詮議《せんぎ》をいたしとうございますが、どなたもご異存はございますまいな」  佐七はずらりと一同を見回したが、だれもそれについて異議を唱えるものはない。無言のまま、探るような目付きでたがいの顔をながめていたが、やがて鵬斎翁がひざをすすめると、 「佐七、するとなにか、宝井喜三治を殺したものは、この一座のなかにいると申すのか」 「はい。喜三治をのぞいた十一人。そのなかからこちらの四人を差し引いて、のこりの七人のなかに、下手人がいるにちがいございません」  遠慮もなく、ズバリとこういい放った佐七のことばに、一座はにわかにざわざわとざわめいた。  光之助は青白んだ顔をしてくちびるをかんでいる。綾乃はうつむいたまま、ぶるぶると鬢《びん》の毛をふるわせている。小菊はじれったそうにおくれ毛をかんでいた。 「ふうむ、これはおもしろい。下手人がこの七人のなかにいるとあるからは、ぜひとも詮議《せんぎ》してもらわねばなるまい。のう、亀次郎、そのほうはどう思う」  剣客の磯貝秋帆は傲然《ごうぜん》たるくちぶりだった。 「さようでございますとも。このままうやむやにすまされちゃ、罪のないものが迷惑いたします。親分、ぜひとも下手人をひっくくっておくんなさい」 「佐七、だれも異存はないようだ。さあ、だれからなりと、ひとりひとり詮議《せんぎ》してくれ」 「ありがとうございます。それでは、差し出がましゅうございますが」  と、ずらりと七人の顔を見回した佐七は、 「もし、薬子さん、おまえさんにちょっとお尋ねいたしたいことがございますが」  名をさされて、巫子《みこ》の薬子はぎくりとしたように白髪をふるわせた。 「はい、このばばあになんぞ用事がござりますか」 「おまえさんのお住まいはどちらでございます」 「はい、わたしの住まいなら下谷《したや》の広徳寺まえ、あのへんで市子の薬子とお尋ねくだされば、だれでもよう知っておりますぞいの」 「なるほど、下谷でございますか」  佐七はにっこり笑いながら、 「それでは、おまえさんにひとつのお願いがございますが、きいてくださいますかえ」 「はい、わたしにできることならば——」 「できますとも。いえ、おまえさんでなければできぬことでございます。ひとつ、ここで死人の口寄せをしていただきたいので」 「死人の口寄せ——? おお、わかりました。それでは、そこに殺されている喜三治さんの口寄せをするのでございますか」  なんでもないことといわぬばかりに、薬子が梓弓《あずさゆみ》を取り直そうとするのを、佐七はいそいで押しとどめ、 「いえ、お化け師匠の口寄せではございません。篠崎又五郎さんの口寄せをしていただきたいのです」  篠崎又五郎という名前をきいたとたん、七人のあいだでは、またざわざわとざわめきが起こったが、わけても鵬斎翁はまゆをひそめて、 「これ、佐七、なんと申す。篠崎又五郎といえばわしの嫡男だが、それでは又五郎は死んだと申すのか」 「はい、お亡くなりでございます。したが、だんな、そのことはもうしばらくお待ちくださいまし。もし、薬子さん、あっしの願いをおききくださいますかえ」 「それはもう、おききしたいのはやまやまですが、なにぶんにもこのばばあは、又五郎さんとやらいうかたをすこしも存じませんので」 「ご存じありませんか」 「はい」 「それでは、ここで又五郎さんのすがたというのをお目にかけましょう。もし、亀廼家《かめのや》の師匠」 「へえ」 「ひとつ、おまえさんの百面相の腕前で、又五郎さんに化けてみせてくださいな」 「えっ!」  亀廼家亀次郎はぎょっとした顔色だったが、すぐにこわばった笑いをうかべ、 「親分の、なにをおっしゃるやら。いくらあっしが百面相の名人でも、見ずしらずのひとに化けることはできません」 「そうかえ。そいつはふしぎだな。それじゃどうしてさっき溜池《ためいけ》で又五郎さんの幽霊に化けて、このおいらを待ち伏せしていたのだ」  あざわらうような佐七のことばに、亀次郎はさっと顔色をうしなったが、それをきいて、辰と豆六もおどろいた。 「親分、それじゃ、さっき葭《よし》のなかからあらわれた幽霊というのは、この亀次郎さんで——」 「そうよ。さすがは怪談話の名人だけあってうまいものよ。はっはっは、亀次郎さん、おまえさんは昔、武家屋敷へ奉公していたといううわさだが、そのお屋敷の名は」 「えっ?」  こんどは亀次郎ばかりではなかった。  鵬斎翁の顔色もさっと紫色になった。佐七はジロリと横目でそれを見ながら、 「そのお屋敷の名は篠崎さま。ねえ、亀次郎さん、おまえもとんだ不忠者じゃないか、大恩うけたお主の若だんなの顔を知らぬなんて。はっはっは、おまえさんも芸人根性になり果てなすったか」  あざわらうようにそういうと、こんどは綾乃のほうへ向きなおり、 「ようございます。亀次郎さんが知らぬというのなら、ひとつお嬢さんにお尋ねいたしましょう。もし、綾乃さま」 「はい。——」  綾乃の声はもう消えいりそうだった。 「おまえさんはまさか、又五郎さんを知らぬなどと、不人情なことをおっしゃいますまいね。それではおいいなずけにたいしてもうしわけがございますまいぜ」  綾乃はそれをきくと、わっとばかりに泣き伏した。  佐七はわざと頭をかきながら、 「ほい、しまった。これはお嬢さんのような生娘にきくのはむりかもしれない。それじゃ小菊にきこう。おい、小菊」 「親分さん、こんどはわたしにおはちがまわりましたかえ」  さすが意地と張りとで鳴らしたおんなだ。  佐七を向こうにまわしても、びくともしない度胸である。 「そうよ、そのとおり。おまえの情人《いろ》の又五郎さん、まさか知らねえとはいうまいね」 「ほっほっほ、なんのことかと思えば、またそのことですかえ。親分さん、又五郎さん、又五郎さんて、いったいその又五郎さんが、今夜の一件となんのかかりあいがあるんです」 「おやおや、こいつもまたはぐらかしか。こうなっちゃアしかたがない。もし、磯貝先生」 「はっはっは、佐七、こんどは拙者の番か」 「さようで。ぜひとも先生のお力をお借りいたしたいので。というのはほかでもありません、ここで又五郎さんの口寄せをいたしたいのでございますが、みんなああのこうのと、正直なことを言ってくれません。そこで先生にお尋ねいたしたいのでございますが、先生の愛弟子《まなでし》で、義兄弟の約束までした篠崎又五郎さん、ひとつそのかたの年かっこうをお教えくださいまし」  それをきくと磯貝秋帆、にわかにからからと哄笑《こうしょう》した。 「佐七、そのほうは聞きしにまさる名人じゃの」 「恐れ入ります」 「しかし、それくらいわかっているなら、薬子と又五郎どのとの関係もわかっていそうなもの」 「はっはっは、これは先生、恐れ入りました。もし、薬子さん、磯貝先生もああおっしゃる。こうなったら又五郎さんをしらぬなどと、へたなしらを切らないで、むかし又五郎さんの乳母をしていたと、いさぎよう白状なさいましな」  これには神崎甚五郎をはじめとして、辰と豆六もあいた口がふさがらない。  わけても甚五郎は、あっけにとられて、 「佐七、佐七、それではなにか。ここにいられる七人のご仁は、ことごとく、又五郎どのとじっこんの間柄か」 「はい、いま、お聞きのとおりでございます」 「しかし、親分、それと今夜の人殺しと、どういう関係がございますので」 「そやそや、ここにいる七人が、みな又五郎さんとやらと懇意やとしても、宝井喜三治を殺したんはいっただれだんねん」  佐七はにんまり笑って、 「だれかということはねえ、七人全部が下手人よ」 「げっ?」 「佐七、そ、そりゃまことのことか。しかし、この七人がなにゆえあって——」 「又五郎さんの敵討ちをしたのでございますよ。又五郎さんは去年の秋、溜池《ためいけ》の葭《よし》のなかで宝井喜三治に殺されたんです。鵬斎さんがつりをしていたそのそばで……」  それをきくと、篠崎鵬斎、老眼に涙をうかべて、黙然と首をうなだれた。むこうのほうでは綾乃の世にも悲しげなすすりなき。それをきくと、さすが強気の芸者の小菊も、意地も張りも抜けはてたように、つと綾乃のそばに立ちよると、 「お嬢さま?」  肩に手をかけ、これまた堰《せき》を切ったように、わっとその場に泣き伏した。  あっぱれ人形佐七の明察   ——宝井喜三治は拙者が手討ちにした  神崎甚五郎はあっけにとられて、しばらく目をしろくろさせていたが、やがてやっと正気にもどると、 「佐七、佐七、しかし、わからぬではないか。あの暗がりのなかで、七人がかわるがわる喜三治をさしたとしても、そのあいだ、喜三治はなぜ声を立てなかったのだろう」 「はっはっは、そりゃ声を立てるはずはありません。喜三治はあのとき、すでに息がとまっていたんですもの」 「なに、息がとまっていた?」 「さようで。だんなは喜三治のみぞおちに黒い痣《あざ》があったのを覚えておいででございましょう。あれでございます」  と、佐七は秋帆と亀次郎の顔を見比べながら、 「さきほど、喜三治は、はなれ座敷できゃっと悲鳴をあげましたね。あれはね、鏡のなかにうつっている又五郎さんのすがたにおどろいたからでございますが、そのとき、はなれへかけつけたのは、磯貝先生と亀次郎さん、喜三治がぶるぶる震えているところへ、磯貝先生がどんと一発、当て身で息をとめておいたのです。そして、ふたりで喜三治をこの座敷へかついできたんですよ」 「しかし、あのとき、喜三治はたしか口を利きましたぜ」 「そやそや、すこし気分が悪いとかなんとか言いましたやないか」 「はっはっは、そりゃ亀廼屋《かめのや》の師匠の声色よ」 「げっ、声色?」 「そうよ、亀廼屋の師匠のとくいは、百面相のほかに声色の吹き寄せ。それでまんまといっぱい食わしたのよ」 「ふうむ」  甚五郎はいまさらのごとく七人の顔を見渡したが、だれひとり異議を申し立てるものもないところをみると、佐七の明察はいちいち肯綮《こうけい》をうがっているとみえる。  佐七はなおもことばをつづけて、 「あっしゃそのことから、磯貝先生と亀廼屋の師匠が、この一件に関係があるとにらみましたが、それにしてもあの鏡のからくり、あっしがみたときはふつうの鏡でございました。あっしのつぎには辰と豆六、それから神崎のだんなもおのぞきになったはずだが、だれもなんともいわなかったところをみると、あんな幽霊の影なんかうつっていなかったにちがいない。それが喜三治の番になってから、ああいう影がうつっていたとしたら、そのまえに鏡をのぞきにいった小菊が、あのからくりを用意しておいたのにちがいない。そうすると、小菊もこの一件に関係があるということになる。こうして七人のうち三人まで喜三治殺しに関係があるとすれば、あとの四人もやっぱり関係があるのじゃないか、と思っているところへ、神崎のだんなからきいた又五郎さんのこと。さっきの手紙は、どうやら、その又五郎さんへ鵬斎さまがお書きになったものらしく、しかも、そこに又五郎さんが芸者と同棲《どうせい》していると書いてございます。その芸者というのは小菊ではあるまいか。また、それをききつたえて、綾《あや》——というところで手紙は切れておりますが、これは綾乃さまが悲しんでいるというふうに、文章が続くのではなかろうかと、こう考えてくると、だれもかれも又五郎さんに関係がありそうに思われる。そこでまあ、いささか当てずっぽうながら、さっきのようなことを申し上げたら、それがあたって、とんだお慰みというところでございました」  淡々として語る佐七の物語に、一同はいまさらのように舌をまいて感嘆した。 「しかし、佐七、喜三治がまたなにゆえあって又五郎どのを……」  甚五郎にはまだなっとくがいきかねる。ふしんらしくまゆをひそめるのをみて、佐七はにっこり、ふところから取りだしたのはさっきの手紙だ。 「だんな、そのしさいはこの手紙がよく物語ってくれます。この手紙のうらに書いてあるのは、喜三治がちかごろ著した『薄雪草紙』の草稿でございますよ」 「ふむ。しかし、それがどうしたというのだ」 「だんな、考えてもごらんなさいまし。鵬斎さまから又五郎さまへあてた手紙のうらに、喜三治が草稿を書くはずはないじゃございませんか。してみれば、この草稿こそは又五郎さまがお書きになったもの。つまり、『薄雪草紙』のまことの著者は又五郎さま、宝井喜三治はそれを盗んだのでございます」  豆六はこれをきくとあっとばかりにおどろいた。なにせこの豆六とくると大の草双紙通、それだけに、他人の草稿をぬすんだ喜三治に、はげしく憎悪をかんじたらしい。 「そんなら親分、あの喜三治というやつは、まやかしもんだしたんかいな」 「そうよ。この『薄雪草紙』ばかりじゃねえ。ちかごろ評判のよいあいつの著作は、おおかた又五郎さんの筆になったものにちがいねえ。又五郎さんは家出をして、好きな著作で身をたてようとしなすった。しかし、そのみちにつてがないところから、宝井喜三治にその紹介をおたのみになったのだ。ところが、喜三治のやつ、ひきょうにもその草稿をじぶんのものにするために、又五郎さんを溜池へおびきだし、バッサリ殺してしまったのだ。鵬斎さま、あっしの申し上げるところに間違いがございますかえ」  鵬斎はこれをきくと、はじめてにっこり笑みをうかべた。 「おお、佐七、そのほうはききしにまさる名人じゃの。じぶんのせがれをみすみすそばで殺されたおれの心中察してくれ」  鵬斎はしばらく息をのみ、 「こんどのことも、おれひとりで処分するつもりだったが、ここにいる六人のものは、ことごとく生前又五郎を愛してくれたひとたちばかり。憎いかたきの宝井喜三治に、一太刀なりと恨みをはらしたいと申さるるゆえ、思いついたのが今夜の趣向。しかし、七人が寄ってたかってひとしれず喜三治を殺すのはあまりひきょうと思ったゆえ、神崎はじめそのほうを招いた。そのほうに見あらわされるか見あらわされぬか、それを運のわかれ目にしたかったのじゃ」  鵬斎翁は暗然としてことばをのんだが、やがてまた口をひらくと、 「しかし、こうしてまんまと見あらわされたからにはぜひもない。神崎、このうえの情けには、ここにいる六人のものはなにごともしらぬということにしてもらいたい。万事はこのおいぼれひとりの仕業じゃとな……」  そこまでいったかと思うと、あなや、篠崎鵬斎翁は、がっくりまえへ突っ伏した。それとみておどろいた甚五郎、すそをさばいてつつうと老人のそばへ寄ったが、 「おお、こ、こりゃ陰腹を」 「え、陰腹を?」  一同がはっとして立ちあがろうとするのを、甚五郎は両手でおさえて、 「これ、みなのもの、騒ぐでないぞ。篠崎鵬斎翁はこよいにわかに頓死《とんし》なされた」  と、意味ありげに喜三治の死体に目をやりながら、 「お化け師匠の宝井喜三治は、無礼のかどあって拙者が手打ちにいたした。よいか、わかったか」  おさえつけるような甚五郎のことばに、一同ははっと平伏した。  外ではまだ雨が降っているらしい。ビショビショという寂しい音が、鵬斎翁の最期をいたむかのように。  夏ももうおわりである。     二人亀之助  娘一人に婿二人   ——朝っぱらからみょうな鞘当《さやあ》て 「お兼ちゃん、お兼ちゃん、ちょっとここへ来てごらんよ。おもしろいものが通るよ」 「なにさ、お留さん、そうぞうしいね」 「そうぞうしいって、ほら、武蔵屋《むさしや》のお鶴《つる》さんだよ。いつものとおり、白亀《しろかめ》と黒亀がくっついててさ、おかしいったらありゃアしない」 「おや、ほんとうだ」  お兼も表をとおる三人づれに目をやりながら、息をひそめて、 「ほんにお鶴さんも気の毒だねえ。ああしてしじゅうふたりにつきまとわれてちゃ、きっと身も心もほそる思いだろうよ。思いなしか、ちかごろ少しやつれたようだが、ほんとうにお気の毒な。まだどちらともわからないのかねえ」 「わからないからこそ、お不動様に願かけてるんじゃないか。だけど、おまえのいうとおり、考えてみればお気の毒な話さ。お婿さんのないのも困るが、といって、いちじにふたりもできちゃ、さぞ困ることだろうね」  ここは深川の不動前、瓦屋《かわらや》という腰掛け茶屋の店先だ。  いま店をひらいたばかりのお兼とお留が、表のほうをのぞきながらそんなことをいっているのを、ふと聞きとがめたふたりづれのお客がある。 「おい、ねえさん、ねえさん、いまの話はなんのことだえ。わかい娘に婿ふたり、なんだが豪気に、おもしろそうな話じゃないか」 「あら、にいさん、お耳にはいりましたか」  茶くみ女のお兼とお留は、そらごらんなというように、たがいに目くばせしながら、 「いえ、なんでもありませんのさ」  と、妙にことばを濁してしまう。 「おや、いやに隠しだてするぜ、なにかおいらに聞かせちゃア悪い話か」 「あら、そういうわけじゃありませんけど」 「そんなら話したってええやないか。白亀と黒亀とはなんのこっちゃ。婿はんがふたり、いったい、どないしよったちゅうねん」  と、ひざ乗りだしたもうひとりの男。——  いうまでもなくこのふたりづれとは、人形佐七のふたりの子分、きんちゃくの辰五郎とうらなりの豆六だ。  それにしても、このふたりが朝早くから、どうしてこんなところにいるかというと、これにはしおらしい事情がある。  この春、佐七が大患いで、辰と豆六がこの不動様に願かけたことは『まぼろし役者』のさいにも述べたが、その患いがほんとうによくなっていなかったのだろう。  そうでなくとも、岡《おか》っ引《ぴ》きという稼業《かぎょう》は体を粗末にするものだから、いつかまた無理がつもったところへ、ことしの残暑の長さがたたったか、佐七はまたもや患いついて、この二、三日、頭もあがらぬ重態に、気をもんだふたりが、またぞろこうして日参しているというわけだ。 「おい、お兼にお留、かくされるといっそう聞きたくなる。武蔵屋のお鶴がどうしたんだえ」  辰五郎が大声でつめよったとき、 「しっ」  と、目でおさえたお兼が、あごをしゃくって表のほうへ目くばせした。  みると、きれいに掃ききよめられた石畳のうえを、十七、八の町方とおぼしいかわいい娘が、うつむきがちに足急がせてかえっていく。  その背後から、くっつくように従ったのは、おなじ年ごろの若者ふたり、ともに二十になるやならずの年輩だが、このふたりというのがはなはだおかしい。  妙なのである。  ひとりは色白なぜ肩のやさ男、もうひとりは色浅黒いふとっちょだが、ふたりとも寸分ちがわぬ服装をしている。  ぞろりと着流した越後《えちご》上布の帷子《かたびら》から、腰にしめた博多《はかた》献上の帯、印伝革のタバコ入れにいたるまで、いっさいがっさい、おそろいなのである。  それなら、それほど仲がいいのかというと、これがまた大違い、どちらもあいてにおくれてはたいへんといわぬばかり、肩ひじはって目をいからせ、ちょっとたもとがふれあっても、たがいにじろじろにらみあっていがみあうのである。  いましも茶店のまえまで来たとき、色の黒いのが、白いやつの足を踏んだからたまらない。 「なんだ、なんだ。なにをするのだ。ひとの足を踏んでどうするつもりだ」 「おや、おまえの足かえ、わたしゃまた、どこの馬の骨かと思うていたよ」 「なに、馬の骨だと? おお、よくものめのめぬかしたな。そういうおまえこそ、どこの馬の骨やら牛の骨やら。この大かたりめ」 「おや、わたしがかたりかえ。ええ、人聞きの悪い。よしておくれ。そういうおまえこそ、大かたりの偽者だ。この大かたりめ」 「おまえこそ」 「おまえこそ」  たがいに負けじと言いつのったあげく、果てはつかみあいになろうというとき、先に立った娘が小走りにもどってきて、 「あの、もし、亀之助さん」  と、たしなめるように声をかければ、 「へえ」  と、色の黒いのが鞠躬如《きっきゅうじょ》として腰をかがめる。  それをまた白いのが押しのけて、 「あれ、おまえのことじゃない、あたしだよ。へえへえ、お鶴さま、なんでございます」 「おや、ずうずうしいよ、この偽者の大かたりは。亀之助さんとはわたしのことだよ。もういい加減にしておくれ、この大かたりめ」 「あれ、またあたしのかたりだなどと、ええ、もう、悔しい。そういうおまえこそ」 「いえ、おまえこそ」  と、またしてもつかみあいになりそうなけんまくは、はたのみるめもあさましく、娘はほとほと困《こう》じはて、はては目に涙さえうかべながら、 「ええい、もう知らない。勝手にそうしていがみ合っておいでなさいまし。あたしゃ知らない。あたしゃもうほんとに知らないよう」  と、両のたもとで顔をおさえて、ばたばたと逃げるようにかけ出していく。ふたりの若者、すわ一大事と、たちまちいがみ合いをきりあげて、 「あれ、お鶴さま、待ってください」 「おや、わたしをつきのけてなにをするんだ。先がけしようとはずうずうしい」  わたしが、あたしがと、ふたりの若者、先をあらそい娘のあとを追っていく。  お兼とお留は、腹をかかえてわらっていたが、辰と豆六は合点がいかない。なんとも奇妙なこの一幕、あきれはてたふたりは、顔見合わせて、しばらくことばも出なかった。  わしにさらわれたいいなずけ   ——お不動様もご利益がありすぎて 「お兼、ありゃアいってえなんだえ」 「にいさん、ごらんになりましたか。あたしゃもう、おかしくって、おかしくって。ほんとにこんなバカなことってございません」  と、お兼とお留は腹をよじってわらっている。 「こうこう、わらってばかりいちゃアわからねえ。いったい、あのふたりの若者は何者だえ」 「なんやしら、おたがいにかたりは偽者やいうていがみ合うてたが、いったいどっちがかたりやねん」 「さあ、それがわからないもんだから、お鶴さんもかわいそうなんですよ。まあ、にいさん、聞いておくんなさい。こうなんですよ」  と、そこでやっと笑いをおさめたお兼とお留が、かわるがわる話しだしたのは、世にもへんてこな物語なのである。  話はいまから十七、八年以前にさかのぼる。  そのじぶん、この不動前へ、武蔵屋という夫婦者が小さな小間物店をひらいた。  亭主《ていしゅ》の久造というのは西国者だということだが、故郷で商売にしくじったので、江戸へ出てひと旗あげようと、夫婦でくだってきたのである。  そのころ芝の札の辻《つじ》のほとりに、桔梗屋利兵衛《ききょうやりへえ》というおおきな小間物問屋があって、手広くあきないをしていたが、これが久造と同国のものだったので、その庇護《ひご》をうけて、武蔵屋もどうやらこうやら商売がなりたっていくようになった。  だれしも、しらぬ他国で同郷のものにあうのは懐かしいものである。  ことに、桔梗屋と武蔵屋は同業のよしみもあり、利兵衛と久造は兄弟のように親密な仲になったが、そのうち、武蔵屋にうまれたのが娘のお鶴。  その前年、桔梗屋にも亀之助という男子がうまれていたが、ひとつふたりを夫婦にしたらということで、よくあるやつだ、親と親とがいいなずけときめておいた。  これでふたりが無事においたち、夫婦になってしまえばなにもいうことはない。市が栄えて、めでたし、めでたしというところだが、好事魔多し、亀之助が三つ、お鶴がふたつのときである。  桔梗屋の乳母のお霜というのが、亀之助を抱いて武蔵屋へあそびにきたついでに、須崎《すさき》の弁天様へおまいりにいった。  ところが、そのかえるさ、六万坪へさしかかると、にわかにわしが舞いおりて、あっというまもない、お霜のだいた亀之助をひっさらって、そのまま空へ舞いあがった。  おりしも霜月のしかも夕刻、六万坪にはお霜のほかに人っ子ひとりいなかったのが亀之助のふしあわせ。お霜は狂気のごとく武蔵屋へかけもどったが、話しをきいて武蔵屋夫婦もおどろいた。ただちに六万坪へ駆けつけるやら、桔梗屋へつかいをはしらせるやら、大騒ぎ。  桔梗屋夫婦もびっくり仰天、血相かえてかけつけてきたが、なにしろあいては空とぶ鳥だ。  それきり行方がわからない。  だいいち、だれひとり、わしのすがたをみたものもないので、けっきょく、わしにさらわれた霜月十三日を亀之助の命日として、金杉《かなすぎ》にある桔梗屋の菩提所《ぼだいしょ》妙心寺でてあつい供養をおこなった。  そのとき、桔梗屋利兵衛は四十二歳、このさき子どもをさずかる希望もなかった。  そこで、夫婦はいたく世をはかなみ、商売の株をいっさい武蔵屋にゆずって、御殿山あたりで頭をまるめ、念仏|三昧《ざんまい》に日を送っていたが、それから二、三年のうちに、夫婦あいついでこの世を去ったのは、おそらく、そのときの悲嘆が原因になったのだろうという。  こちらは武蔵屋久造で、桔梗屋の株をゆずられてから商売もとんとん拍子、いまでは、江戸でも指折りのものもちとなったが、それにつけても、思い出されるのは桔梗屋の恩。  久造夫婦はこの世でもめずらしい実直者だったので、桔梗屋親子三人の命日には、毎月かかさず墓参りをおこたらず、ことあるごとに、当時のかなしい思い出話をくりかえすのだが、空行く駒《こま》のあがきにひまなく、そのうちに娘のお鶴はもう年ごろ。  しかもこれが、うりのつるになすびがなったか、深川小町といわれるほどのきりょうよし。  されば、嫁にもらおう、婿にいこうと、縁談の口はふるほどあったが、そうなると思い出されてくるのは亀之助のことである。  これが死んだというのならあきらめもつくが、わしにさらわれたとばかり、はっきり生死がきまっていないだけに、久造夫婦もねざめがわるい。  ひょっとすると、どこかの空で、だれかに救われ、まだ生きているかもしれないと思えば、ほかから婿をとるのがなんとなく大恩をうけた桔梗屋夫婦にすまない気がする。  といって、いつまでもそちらへ義理をたてていては、娘のお鶴もトウが立つばかり。  そんなことから患いついたか、久造はとうとうこの世を去った。  ところが、その臨終のさいに久造は、よせばよいのに娘のお鶴をまくらもとに呼びよせて、はじめて昔の約束をうちあけたのである。  ひとのうわさも七十五日で、いまではだれも桔梗屋のことを知っているものはなかったから、お鶴もいまのいままで、わが身にそんないいなずけがあろうとはゆめにも思いおよばなかったから、この話をきいて、どんなに驚いたことだろう。  このお鶴というのがまた、いまどきにめずらしい娘で、はじめてきいたその話を、父の遺言とばかりにかたく肝に銘じて、それからのちは、どんな良縁があっても見向きもせず、ひたすら亀之助様の生死がしれますようにと、お不動様に願かけたが……。 「それにしても、お不動様もご利益がありすぎるじゃアありませんか。ひとりでいいところを、ふたりまで亀之助さんがでてきたんですよ」  と、お兼とお留は、笑いもせずに目を見交わせてため息ついた。  いよいよもって奇怪な話に、辰と豆六のふたりは、むだ口もわすれてききいっている。  白亀御殿と黒亀御殿   ——お鶴を真っ二つにはできません  まず最初にあらわれたのが、お留とお兼のいわゆる黒亀、あの太っちょのほうだった。  この色のくろい亀之助は、武州八王子在の猟師、金蔵というものの息子で、名も倉作としてことしの春までなにもしらずに暮らしてきたが、この春、父の金蔵が死ぬまぎわに、はじめて息子にその素性をうちあけた——というのである。  それによると、いまからかぞえて十七年まえ、八王子浅間神社の千年すぎのこずえで、ある朝、けたたましい赤ん坊の泣き声がした。ひとびとが驚いてかけだしてみると、一羽の大わしが泣きさけぶ赤ん坊をつめにつかまえてとまっている。そこで、村人はほら貝をふくやら、鐘太鼓をたたくやら、わしを追っ払おうと大騒ぎをしているところへ、やってきたのが猟師の金蔵だ。  さっそく神主の了解をえて、ずどんと一発、もののみごとに大わしをしとめると、金蔵はみずからすぎの木をよじのぼって赤ん坊を救いおろしたが、さてこの赤ん坊の身もとがわからない。  近在でも、わしに赤ん坊をさらわれたという話はない。  そのころ、猟師の金蔵は、子どもがないのを寂しがり、かねてから浅間神社へ願をかけていたので、これこそ神様のお授かりものにちがいないと、神主や村名主に申しいでて、引き取って、いままで育ててきたのが倉作だというのである。  この話をしたあとで、金蔵はさらにもうひとつの秘密を打ちあけたという。 「だがの、倉作や、われの身もとがわからぬというたはまっかな偽り、まことはそなたを抱きおろすとき、腰にさげていたこれ、この守り袋、おれはすばやくかくしておいたのじゃ。それというのが、のう、倉作、おれはわれをじぶんの子どもにしたかった。守り袋を証拠に、じつの親のところへ連れもどされるのが怖かったのじゃ。これを証拠に、これ、倉作や、じつの父母を探しておくれ」  と手渡したのが、ぼろぼろになった金襴《きんらん》の守り袋。ひらいてみると、成田山のお守り札のほかに、桔梗屋利兵衛《ききょうやりへえ》長男、亀之助と墨色も淡くなった紙いちまい。 「それに、父の申しますには、そのときわたしの着ておりました、これ、この団蔵のしめの紋付きは、そのころお江戸ではやったものゆえ、おまえは江戸のものにちがいないと申します。それで、この春よりお江戸へまいり、桔梗屋というのを探しておりましたが、かいもくわからず、ほとほと当惑しているうちに、馬喰町《ばくろちょう》の宿で、ひとからこちら様の話をききましたので……」  と、守り袋と紋付き証拠に武蔵屋を訪ねてきたから、後家のお豊《とよ》と娘のお鶴はおどろいた。  なにしろ、十七年もそのむかし、しかも三歳のときに行くえしれずになったのだから、わしにさらわれたあの亀之助どのがはたしてこの倉作かどうか、お豊にも見きわめはつかなかったが、持ってきた紋付きにはたしかに見おぼえがあった。  紋も桔梗屋とおなじ九曜星、古さもそのくらいになっている。  それにまたあの守り袋、よもや間違いはあるまいと思ったが、念には念をいれよというので、ひとをやって八王子のほうを調べてみたが、なるほど、いまから十七年まえに、浅間神社の社頭で、そういう騒ぎがあったということを、まだおぼえている老人が二、三人あった。  こうなるともう疑いはない。  倉作こそは亀之助さまと話がきまると、武蔵屋でも捨ててはおけない。それからのちは下へもおかぬもてなしで、しだいによっては約束どおり、ちかくお鶴と祝言させようと、そこまで話がすすんでいるとき、降ってわいた大椿事《だいちんじ》というのは。—— 「驚くじゃありませんか、にいさん、そこへまたひとり、亀之助と名乗ってでたものがあるんです。それが、ほら、あの白亀さん」  と、お兼とお留は目を見交わせる。  こんど名乗ってでた亀之助も、金襴《きんらん》の守り袋と団蔵のしめ紋付きを持っていたが、これがまえのとそっくりおなじである。  守り袋のなかには成田山のお守り札、ほかに桔梗屋利兵衛、長男、亀之助と書いた紙いちまい。どちらも見おぼえのある利兵衛の筆跡にちがいなかった。  この白亀は、房州|木更津《きさらづ》の漁師|鰡八《ぼらはち》というものに育てられ、与七と名乗っていたが、幼いときから、じぶんが捨て子だということを知っていた。  それで、鰡八の死後、紋付きと守り袋を証拠に、じつの親を探そうと十五のときに江戸へ出たが、ちかごろはからずも武蔵屋の話をきいたので、こうして名乗って出たというのである。  おどろいたのは、武蔵屋の後家お豊だ。  紋付きといい、守り袋といい、どちらを白とも黒ともいいにくい。  ひとをやって木更津のほうを調べてみると、与七はたしかに捨て子だという話である。ある日、波打ち際に捨てられていたのを、鰡八がひろって養育したのだという。  してみると、わしが重さにたえかねて、そこへ捨てていったのかもしれない。  さあ、こうなると弱ったのはお豊だ。  どちらが偽者ともわからぬ以上、めったなこともできないのである。  このお豊というのがまた感心な女で、桔梗屋の大恩を肝に銘じてかんじているので、もしまちがってほんものの亀之助を粗略にするようなことがあってはならぬと、屋敷のなかにふた棟《むね》の離れを建てまし、いっぽうを黒亀御殿、もうひとつを白亀御殿とよんで、着物から所持品にいたるまでいっさいおそろい、こうして気ながに真偽の判明するのを待とうというのだが……。 「しかし、にいさん、着物や所持品はそれでよいとして、お鶴さんをふたつに裂くわけにはいきません。それに、どうでしょう、あのふたりときたら、約束を盾にやいのやいのと祝言を迫るんです」 「そうして、あなた、あいてにせんを越されてはと、さっきもごらんになったとおり、お鶴さんのいくさきざきへ、うるさく付きまとっているんですよ」  と、こもごも語るお兼とお溜の物語に、はじめてさっきの一幕もがてんがいったが、それにしてもあまり奇妙ないきさつに、さすがの辰と豆六も、顔見合わせてあきれるばかり。  哀れお鶴は人身|御供《ごくう》   ——ぬすっとたけだけしいとはおまえのこと 「豆六、おまえいまの話をどう思う」 「どう思ういうて、兄い、なんやけったいな話だんなあ」 「そうよ、こんなことがつづいたら、かわいそうに、お鶴という娘はとても生きちゃいられねえぜ。じれってえな。こういうときに親分さえしっかりしていておくんなすったら、造作なく片がつくんだが」 「そやそや、わてもいまそれを考えてましてん。親分がひとめにらまはったら、いっぺんにどっちが白か黒かわかるんやが……」  その親分の人形佐七は、あいにくいまはまくらもあがらぬ大病人だ。 「どうだ、豆六、ひょっとすると、なにかの足しになるかもしれねえ。ついでにちょっと、武蔵屋というのをのぞいていこうか」 「ああ、それがよろしおます」  と、そういうわけで辰と豆六、お不動さんを出るとぶらぶらと武蔵屋のおもてまでやってきたが、みると武蔵屋の表には、いっぱいひとが立ち止まって、おもしろそうに店のなかをのぞいている。なにごとが起こったのかと辰と豆六も立ち止まり、 「なにかあったんですかえ」  と、そばにいる男に尋ねてみると、 「あれをごらんなさい。さかりのついた犬のように、しょっちゅうあれなんだから、あきれてものがいえないじゃありませんか」  と、そういうことばに店のなかをのぞいてみると、帳場格子のなかにお鶴が座っているのだが、その左右には、またしてもあの白亀と黒亀だ。  まるで右大臣、左大臣というかっこうで、これがまた、少しでもお鶴の注意をひこうというのか、鬢《びん》をなでたり、えりかき合わせたり、それでもお鶴が見むきもせず、じっとうつむいているので、エヘン、エヘン、ふたりがかわるがわる咳《せき》をしている。  あげくの果てには、黒亀がたまりかねたようにお鶴のそばへにじりよってひざに手をかけると、たちまち白亀が目をいからせ、「これ、なにをする、みっともない」  と、黒亀の手を払いのける。黒亀もむろん黙ってはいない。 「なにがみっともない。そういうおまえこそ、店先でお鶴さんのひざに手をかけたりして。それをまたお鶴さんが黙っているなんて、ああ、悔しい。それではお鶴さん、おまえは本物のこの亀之助をそでにして、その大かたりになびく気かえ」 「ええ、ぬすっとたけだけしいとはおまえのことじゃ。あたしこそいいなずけの亀之助、お鶴さんはあたしのものじゃ。のう、お鶴さん」  と、お鶴のほうにしなだれかかれば、黒亀はいよいよいきり立ち、 「ええい、もう、こうしてくれるわ」  表に立ったひとだかりもなんのその、またしてもつかみあいが始まった。  お鶴はそれでも、じっとうつむいたまま身動きもしない。  あまりの悲しさあさましさに、針のむしろに座った心地で、泣くにも泣けない。  見るにみかねたのか、手代がひとりおくから小走りに出てくると、なにやらお鶴の耳にささやく。  お鶴はそれを機会に立っておくへ入ったが、それをみると白亀黒亀、にわかにつかみあいを中止して、これまたあたふたと奥へはいっていく。  表に立った野次馬はおもしろがって、さっきからワイワイとはやしたてていたが、すると、さっきの手代が目にかどたてて店先へ出てきた。 「もし、みなさん、見世物じゃございません。そんなところへ立っては困ります」  と、いまにも水でもぶっかけそうなけんまくだが、その手代の顔をみて辰と豆六、おもわずあっと舌をまいて、顔見あわせた。  世にもものすごい形相をしているのである。まだとしはわかいのだろうが、やけどのあとか、右のほおはんめん赤むけになっていて、じつに惨憺《さんたん》たる顔である。  それでいて、左のほおはほれぼれするような男振り。それだけに右半面の赤むけがいっそう痛ましいかんじである。 「もし、ちょっとお尋ねいたします。あれはこの店の手代さんですかえ」  辰五郎がそばの男に尋ねると、 「ええ、そうですよ。兵助といって小僧のときから奉公していて、それは気性のよい男ですが、ちかごろは気でも狂ったように、気が荒くなっているんです」  野次馬がいつまでたっても散らぬのに業を煮やしたか、手代の兵助は、とうとう手桶《ておけ》にいっぱい水をくみだし、あたりかまわずまきはじめたから、さあ、武蔵屋のおもては大騒ぎになった。 「は、は、は、こいつはとんだお茶番だ。豆六、そろそろ切り上げようぜ」  と、それからまもなく、お玉が池へかえってみると、ふたりの信心がとどいたのか、佐七はけさからぐっと調子がよくなって、寝床のうえに起きなおっていたから、辰と豆六は大よろこび。 「おお、辰と豆六、ご苦労だったな。おまえたちに心配ばかりかけてすまねえ」 「なにいいなはんねん、水臭い。親分子分の仲やおまへんか。まあ、そうきなきなせんと、気長に養生しておくれやす。なあ、兄い」 「そうとも、そうとも、なに、あっしと豆六がいるからにゃア十手捕りなわにかびの生えるようなことはしやアしません。豆六もいうとおり、ゆっくり保養しておくんなさい」 「ほんに、おまえさんたちのおかげで、あたしもどれだけ心丈夫かしれないよ」  と、女房のお粂《くめ》ははや涙ぐんでいる。 「ときに、辰や、なにか世間にかわったことはないかえ」  寝ていても人形佐七、やっぱりそれが一番の気がかりだった。 「へえ、ここんところいいぐあいに泰平無事で、なにも事件はありません。なあ、豆六」 「そやそや。事件のほうで親分に遠慮しよったんだっしゃろ。なにもかわったことはおまへん。ただちょっと、いまきいてきたあの話……」 「しっ!」  と、辰五郎がおさえたが遅かった。佐七はたちまちききとがめて、 「なんだえ。いま聞いてきた話というのは」 「なに、親分、たいしたことじゃありません。ほんの、もうお茶番で……」 「いいから話してみろ。そうかくされると気にかかる。辰、てめえがいやなら豆六に聞く。豆六、その話というのはなんだえ」 「チョッ、いわねえこっちゃねえ。だから、豆六、てめえは口が軽いといわれるんだ」  と、それでもふたりがかわるがわるさっきの話をして聞かせると、佐七はたちまち目をかがやかせ、床のうえでひとひざのりだすと、 「ふふうん、そいつはめずらしい話だ。わしにさらわれた子どもがなあ、ふうん」  と、佐七は腕をこまぬいて、それきりなにやらふかく考えこんでしまった。  怪しいのはお霜と兵助   ——八王子でも木更津でも五里霧中  うっかり佐七の耳にいれたから、事件はそのままではすまなくなった。  なまじ人殺しや強盗事件より、佐七にとってはこういう変わった事件のほうがおもしろい。といって病後の体、じぶんでは動けないから、そこでこの探索は、辰と豆六が手分けしてやることになった。  辰は八王子へ、豆六は木更津へ、それぞれおもむいて黒白二人亀之助の身もとをもういちど調べあげることになった。  そして、お粂はお粂で、もうひとつべつの役目があった。 「お粂、おまえは桔梗屋の菩提所《ぼだいしょ》、妙心寺へいって調べてくるんだ」 「おや、親分、すると、お寺がなにかこの事件に関係がありますかえ」 「辰、おまえにゃわからないかえ。黒白二人亀之助が、証拠としてもちだした紋付きと守り袋、そのひとつは亀之助がわしにさらわれたとき身につけていたものだが、あとのひとつは偽物だ」 「へえ、そりゃわかってます」 「だがの、偽物といったところで、まんざらこしらえものじゃねえ。着物にしろ守り袋にしろ、武蔵屋の後家がたしかに見おぼえがあるというんだから、こりゃほんとに、亀之助のものだったにちがいねえ。つまり、亀之助は、おなじ衣装と、おなじ守り袋をふたつずつ持っていたんだ」 「そりゃありそうなことですね」 「そのうちひとつのほうは亀之助とともにゆくえがわからなくなったが、問題はあとのひとつだ。これがいまごろ出てきたとすりゃ、どこかにしまいこんであったにちがいねえ。そんなものを後生大事にしまいこんであるのはどこだえ」 「あっ、そら寺や」 「そうよ、亀之助の供養をするとき、桔梗屋じゃ着物と守り袋を寺におさめたにちがいねえ。だから、だれがそいつを持ちだしたか、お粂、それを調べてくるんだ」  寝ていてもさすがは人形佐七である。明察たなごころをさすがごとしだ。  こうして手分けができると、辰と豆六その日のうちにそれぞれ旅立ったが、まず、だいいちにきんちゃくの辰、八王子のほうから話をしよう。  江戸から八王子じゃ、そのころではちょっとした旅だ。  それでも日のながいじぶんだから、夕方までにはどうやら着いて、その夜は旅籠《はたご》に一泊、翌朝起きると、さっそく探索にとりかかったが、これは案外ぞうさがなかった。まえに武蔵屋のものがしらべにきて、八王子中ぱっと評判になっていたところだから、村の古老というのもすぐわかった。  これは浅間神社のそばで茶屋をしている鎌五郎《かまごろう》というおやじ、会ってみると、としはもう七十いくつだが、頑健《がんけん》なからだつきをした老人だった。  辰五郎から用件をきくと、 「そのことなら間違いございません。倉作はたしかにわしにさらわれてきた子どもです」  というのだが、問題はそのとき着ていた着物と、その日の日付だ。  着物のほうはどうしても思い出せないというから、せめてその日の日付をときいてみたが、なにしろとおい昔のこと、正確な記憶のないのもむりはない。  ただ、寒いじぶんだったということだけを覚えている。  亀之助がわしにさらわれたのは、霜月十三日の夕刻である。したがって、ここで発見されたのは十四日の朝にちがいないが、それなら、寒いじぶんというのも無理はない。  そうすると、やっぱり黒亀こそはほんものかと思われるが、なお念のために、 「とっつぁん。なんとかしてその日付を思いだせないかえ。そのさわぎのあった日に、だれかが死んだとか、産まれたとか、そういうことをおぼえちゃいねえか」  そういわれて鎌五郎、しばらくじっと考えていたが、やがて、はっとなにかを思い出したように、指折りかぞえながら、 「そうそう、そういえば、おまえさん、あれはわたしの息子が死んで、初七日のあくる朝のことでした。息子が死んだので、江戸へ奉公にだしてある娘を呼びかえしたんです。娘は初七日までという約束で、お暇をもらってきていたので、初七日の法要がすんだそのあくる朝、江戸へかえろうと表へでたとき、すぎのてっぺんで赤ん坊の泣き声、あれを見つけたのは娘がいちばんはじめでしたっけ」 「なるほど、なるほど、よく思い出してくんなすった。そして、それは何月の何日だえ」 「そうさな、息子の命日は霜月一日だから、八日の朝のさわぎになります」  きいて辰五郎はあっとばかりに驚いた。  亀之助がわしにさらわれたのは十三日、それが八日の朝、八王子で発見されるなどと、そんなべらぼうな話はない。 「とっつぁん、それはたしかだろうね」 「ええ、間違いはございませんとも。なにしろ、せがれの命日ですから」 「そして、その娘さん、霜月八日の朝、いちばんはじめに赤ん坊を見つけた娘さんというのは、いまどこにどうしているんです」 「それがさ、もう長いこと便りがないので、どこにどうしているかわかりませんが、そのじぶん、芝札《しばふだ》ノ辻《つじ》の、桔梗屋さんというのに奉公しておりました。名はお霜というんで」  聞いて辰五郎は二度びっくり。  黒亀が偽者であることは、これでおおかたわかったが、それにしても、お霜——あの乳母のお霜が、この一件にどういう関係があるのだろう。  さて、八王子のほうはそれくらいにしておいて、話かわってこちらは木更津。  うらなりの豆六も、なんなく白亀与七の養父、鰡八《ぼらはち》の隣家に住んでいたというお綱という女房を探しあてた。 「へえ、もう、あの与七ときたら、子どものときから手におえない悪たれでございましてね。捨て子だということをしってるもんですから、すっかりひがんでしまったんですね。鰡八さんが亡くなると、すぐとび出してしまいましたが、村じゃ厄払《やくばら》いをしたような気持ちでしたよ。だけど、あの与七がどうかしたんですか。このあいだも江戸から調べにきたものがありますよ」 「そら、武蔵屋のもんだっしゃろ」 「はい、武蔵屋のひとも来ましたが、それよりまえに、この村のもので、江戸へ出ている男がかえってきて、与七のゆくえをさんざん尋ねていましたよ」 「へえ、そらまたどういう男だす? 武蔵屋のほかにも聞きにきたとは……?」  豆六はなにげなく聞いたが、 「兵助といいましてね、顔はんぶんにやけどのある男ですよ」  兵助と聞いて、豆六はおもわずあっと、肝をつぶしてしまった。  兵助——すると、武蔵屋のあの手代は、白亀与七とおなじ村のものだったのか。 「そうですよ。幼いときから与七の遊び友達でね。おやじは元右衛門《もとえもん》というばくちうちでしたが、あの子が三つのじぶんにこの村へながれてきましてね。十年ほどいて死にました。それで、あの子は江戸へ奉公ぐちをさがしにでたんですよ。たしか十二、三のときでしたが、親ににあわぬ利口な子で、与七などとちがって、それは気性のよい子でしたが、かわいそうに顔があのとおりなんでね」  問われもしないことまでべらべらしゃべるお綱の話に、豆六はなにがなにやらさっぱりわけがわからなくなった。  危機一髪の乳母お霜   ——証拠のふた品盗んだのは寺男か  芝金杉《しばかなすぎ》にある妙心寺、そこの庫裏からいましも出てきたのは佐七の女房お粂である。辰や豆六におとらず、お粂もかなりの収穫があった。  まずあの衣装と守り袋だが、佐七の明察どおり、たしかにそういうものが寺にあったというのだが、調べてみると、これがいまどこにも見当たらない。  和尚《おしょう》の巌山というのがおどろいて、 「はてな」  と、首をかしげ、 「すると、もしや武蔵屋さんで、ちかごろ騒いでいるあの亀之助のひとりというのは、こちらの寺からふた品を盗み出して……」  と巌山和尚もはじめて思いあたったようすである。  桔梗屋の親子三人の回向のために、武蔵屋の後家のお豊が年に三度はお参りするから、和尚もあのさわぎは知っている。 「はい、そのひとりが持ちだした証拠の衣装と守り袋は、たしかにこのお寺から出たものと思われます。それについて、和尚さま、だれがそれを持ちだしたか、お心当たりはございませんかえ」 「いや、そうたずねられても困る。ああいうものは、滅多に出してみるものではないからな。いつのまに紛失したやら見当もつかぬが、ただひとつ、おかみ、ここにちょっと妙なことがある」 「と申しますと……」 「月の十三日は亀之助どのの命日にあたっているが、その日には、いつもかならず亀之助どののお墓へお参りにくる女がある」 「とおっしゃいますと……武蔵屋のおかみさんではございませんので」 「いいや、そうじゃない。武蔵屋のおかみじゃない。武蔵屋のおかみにいままで黙っていたが、亀之助どのの乳母じゃ、乳母のお霜じゃ。このことはかならず黙っていてくれと、泣いてたのむので、だれにもいままで話はせなんだが……」  聞くなり、お粂は立ちあがった。  考えてみると、きょうはちょうど八月十三日、ひょっとすると、お霜にあえるかもしれないと、庫裏からとびだしたお粂が、いそいで裏の墓地へまわっていくと、そのとき、 「あれ、人殺し!」  と、ただならぬ女の悲鳴である。  はっとおどろいたお粂のあとから、和尚の巌山も声をききつけかけ出してくる。ふたりが墓地へふみこむと、逢魔《おうま》がどきの薄くらがりに、ぎらりと出刃が光って、 「あれ、だ、だれか来てえ!」  と、こけつまろびつ、墓のあいだから逃げてくるのは、四十前後の中ばあさん。  そのばあさんのたぶさをひっつかんで、うしろに引きもどそうとしているのは、豆絞りのほおかぶりで顔をかくしたひとりの男。 「おのれ、くせ者」  和尚の巌山は出家ながら、なかなか腹がすわっている。  ありあう小石を拾いあげると、はっしとくせ者に投げつけたが、ねらいはあやまたず眉間《みけん》にあたって、あっと二、三歩うしろへたじろぐそのひょうしに、ほおかぶりがバラリととけて、その顔をみるなり、和尚はあっとおどろいた。 「おお、おまえは直助」 「ちょっ、しまった」  さけぶなり直助という男、くるりときびすをかえしたかとおもうと、雲をかすみといちもくさん。 「和尚さん、あれは……」 「寺男の直助というやつだ。してみると、あの衣装と守り袋を盗んだのもあいつにちがいない。だが、それよりもあのお霜を……」 「ああ、それじゃアやっぱり、あのひとが……」  お粂はあわててかけよって、土のうえに倒れているお霜をたすけおこした。  お霜は二、三カ所手傷をうけていたが、さいわいいずれも急所をはずれて、いのちに別条はなかった。  なににしても、お霜をみつけだしたのは大手柄、亀之助に乳をふくませたお霜なら、顔かたちはかわっていても、どこかに見おぼえがあるにちがいない。お粂はさっそく、お霜を駕籠《かご》にのせてお玉が池へかえってきたが、これには佐七も大喜び。 「これ、お霜さん、おまえはまたどうして、そう逃げかくれしているんだ。武蔵屋さんのあのさわぎは、おまえもきっと知ってるだろう。それだのに、なぜかくれていたんだ」  佐七がいくら尋ねても、お霜はただおろおろと泣くばかり、なにかしら、いうにいえないふかい秘密を、お霜は胸につつんでいるらしい。 「おまえなら、亀之助のからだをよく知っているはずだ。なあ、お霜さん、亀之助のからだに、なにか目印のようなものはないかえ」  聞かれて、お霜はようやく顔をあげた。 「はい、そうおっしゃれば思いだします。坊ちゃんの左の腕に、小さな痣《あざ》がございました。それが亀《かめ》の甲のかたちに似ているところから、だんなさまが亀之助さまと名をおつけになったと申すことでございます。はい、これは間違いございません」  左の腕に、亀のかたちをした痣——これほどたしかな証拠があろうか。この痣のあるほうこそ、ほんものの亀之助にちがいない。  それははたして白亀か、はたまた倉作の黒亀だろうか。  あとから思えば、佐七がすぐにその足でお霜をひきつれ、武蔵屋へかけつければなんでもなかったのだが、なにをいっても病後のからだ、それに佐七としては、この事件を辰や豆六の手柄にしてやりたかった。  いずれあすになればふたりもかえってくるだろう。その報告をきいたうえで、ふたりにお霜をつけてやり、黒白を明らかにさせてやろうと、たったひと晩のばしたのが不覚のもと、その晩、武蔵屋ではたいへんなことがおこった。  意外なるお霜の告白   ——わしにさらわれたとは真っ赤なうそ 「おまえさん、たいへんだよ、たいへんだよ」  その翌日の昼さがり、佐七もだいぶよくなったので、久しぶりに近所のお湯へいっていた女房のお粂が、血相かえてかえってきた。 「ど、どうしたんだ。お粂、年がいもなく騒々しい、少しは慎まねえか」 「どうもこうもありゃアしない。おまえさん、どうしましょう。ゆうべ、武蔵屋さんへくせ者がしのび入り、亀之助が切られたとさ」  そばで聞いていたお霜も、はっとばかりに驚いた。 「なんだ、亀之助が切られたと。そして、どちらの亀之助だ。白亀か、黒亀か」 「それが、ふたりとも切られたんだとさ」 「なに、ふたりとも? そして、切られて死んだのか」 「いえさ、それがふたりとも、左の腕の根元からプッツリと切り落とされて……くせ者がその腕を持ち去ったということだよ」  聞いて佐七もお霜もあっとばかりに仰天した。ただひとつの証拠になるあの左腕を切りおとされては、なにをたよりに亀之助の真偽を見分けることができよう。 「しまった!」  佐七は地団太をふむように体をゆすり、 「おおかた、寺男の直助が、きのうおまえたちのあとをつけ、ここまでやって来やアがったにちがいねえ。そして、お霜さんの話を立ちぎき、証拠になるあの左腕をふたりとも切っていきゃアがったにちがいねえ。こりゃこうしては……」  立ちあがろうとするのだが、病後の悲しさ、佐七はそのままよろよろ倒れる。  だが、ちょうどさいわい、そのとき辰と豆六が、ほとんど同時にかえってきた。  お霜をつぎの間へ遠ざけておいて、かわるがわるふたりの話をきいていた人形佐七、しばらくじっと考えこんでいたが、やがて、なにか思いあたったらしく、ぎょっと目を光らせると、 「お粂、駕籠《かご》をよべ、駕籠は二丁だ」 「あれ、おまえさん、出かける気かえ」 「べらぼうめ、これを捨てておけるものか。このままほうっておけば、かわいやお鶴は死んでしまう。お霜さん、おまえもいっしょにいくんだぜ」  なぜか出渋っているお霜をつれた人形佐七、駕籠をつらねてやってきたのは武蔵屋だ。辰と豆六がついてきたことはいうまでもない。  昨夜の事件でとりこんでいるところへ、思いがけなくいま評判の人形佐七ときいて、武蔵屋はうえをしたへの大騒動だ。  お豊とお鶴がうろうろするのを、 「おかみさん、お鶴さん、なにもかまわねえでくんなせえ。病後のことゆえ、多少むさいかもしれねえが、がまんしてくだせえ」 「恐れ入ります」 「ほんにいろいろ心配だったろうが、あっしがきたからにゃア安心しなせえ。お鶴さん、いまにらちをあけてあげるぜ」 「なにとぞよろしくお願いいたします」  と、お豊のいうあとから、お鶴はわっと泣きだした。  いま評判の人形佐七、それが病中にもかまわずきてくれたかと思うと、感謝の思いと、かつはまた、佐七がきたからにはからなずらちをあけてくれるにちがいないと、安堵《あんど》の思いで、にわかに張りつめた気がゆるんだのだろう。 「かわいそうに、おまえもさぞ胸を痛めたことだろう。おかみさん、それじゃ黒亀のほうからはじめますから、案内しておくんなさいまし」  黒亀御殿へ入っていくと、ゆうべ忍びこんだくせ者にすっぱり左腕を根元から切り落とされた黒亀の倉作が、あおぐろい顔をして、寝床のなかでうなっている。  辰と豆六に左右からささえられた人形佐七は、よろよろとそのまくらもとにすわると、 「もし、武州八王子からきた亀之助さんというのはおまえのことかえ」 「は、はい、わたしでございますが、なにかご用でも……」  ものものしいあたりのけしきに、黒亀はなんとやら不安らしく、妙におどおどまゆをしかめているのは、かならずしも傷が痛むばかりではないらしい。 「ふむ、きのうはまたとんだ災難だったな。くせ者が切り落としていったそうだが、なにかえ、おまえそれについて、なにか心当たりはないかえ」 「は、はい、それでございますが、けさほどからつらつらと考えてみますのに、わたしやっと思いあたりましたので……」  黒亀は苦痛をこらえて、にわかに寝床から身をのりだした。なんだか、待ってましたといわんばかりのようすなのである。 「ほほう。そして、思いあたるところというのは……」 「さればでございますが、切りおとされたわたしの左腕には、うまれたときから亀の甲の形をした痣《あざ》がございますので……ひょっとすると、わたしが亀之助と名づけられたのも、この痣のためではないかと、いまから思うと考えられますんで」 「ほほう、亀の甲の形をした痣があったというのかい」 「はい、たしかにございました。いまから思えば、その痣をなぜもっと早くみなさんにお目にかけなかったかと、残念でたまりません」  佐七はにんまり薄笑いをうかべ、 「亀之助さん、いやさ、倉作、きさま、そんなせりふをだれから教わった」 「な、なんとおっしゃいます」 「なにもへちまもあるもんか。辰、豆六、いいからそいつをふん縛ってしまえ」 「おっと、合点や、この不届きな偽物め!」  辰と豆六が左右からバラバラと躍りかかると、亀之助ははっと顔色をうしなって、 「あ、あれ、ま、ま、ど、どうしたのでございます。あ、痛ッ、それはご無体でございます。わたしは亀之助にちがいございません。はい、わしにさらわれた亀之助でございます。痛ッ、痛ッ、あ、もし、痣が……痣があったのがなによりの証拠……」 「ええい、まだヌケヌケと申しているのか。べらぼうめ、おまえが亀之助でないことは、ここにいる辰五郎が、わざわざ八王子まででむいて調べてきてるんだ。おい、倉作、ネタはちゃんとあがっている。きさまはゆうべしのんできたあの寺男の直助に、はじめて痣のことをききゃがったんだろう。そこで、痣のない腕を直助に切られたにちがいねえ。このおおかたりめが」  直助の名をきくと、黒亀はくちびるまでまっさおになったが、それでも、まだまだこれくらいのことで恐れ入る痴《し》れ者《もの》じゃなかった。 「でも、でも、ひとにきいてみてくださいまし。はい、わたしはいまから十七年まえ、わしにさらわれて、八王子の浅間神社のすぎの木までつれていかれた子どもです。こればっかりは、だれがなんとおっしゃろうとも、正真正銘の身の上でございます」 「ところが、それが大違いよ。おまえが八王子でひろわれたのは、霜月八日のこと。ところが、亀之助さんがわしにさらわれたのは、それから五日のちの十三日の夕刻のこと。どうだ、てめえこれでも亀之助だといい張るのか」  倉作ははっとひるんだようすだったが、それでもなお強情らしく、 「でも——でも、わし——わし——」 「べらぼうめ、わしだかおまえだかしらねえが、おい、倉作、それがだいいちまちがいのもとよ。みなさんもよくお聞きなさいまし。亀之助さんがわしにさらわれたなどと思っていなさるから、こんなまちがいが起こるんです。亀之助さんがわしにさらわれたなどとはまっかなうそ、なあ、お霜さん、おまえもいいかげんに、白状したらどうだえ」  それをきくと、一同は不審そうにお霜のほうを振りかえったが、乳母のお霜はそのとたん、わっとばかりにその場へ泣きふした。 「すみません、すみません。親分さん、おかみさん、どうぞかんにんしてくださいまし」 「まあ!」  後家のお豊はあまりのことに、しばらくことばものどからでない。 「それじゃ、お霜さん、あのときおまえさんのいったことばは、あれはみんなうそだったのかい? いままでおまえはひとをだまして……」 「すみません、すみません」 「なんだっておまえさん、そんなうそを……」  お霜はただ泣きくずれるばかりで返事もない。 「いや、おかみさん、こればっかりはお霜さんにもいいにくかろう。それじゃアあっしが代わって話をしましょう。お霜さん、おれの話がまちがっていたら、おまえそばから遠慮なくいってくれ」 「はい……」 「さて、あの日の夕刻、お霜さんは亀之助さんを抱いて、須崎《すさき》弁天へお参りに出かけたといいますが、これからしてが、だいいちおかしい」 「おかしいとおっしゃいますと……?」 「霜月十三日の、しかも夕刻といやア、季節も季節、時刻も時刻、そんな寒いじぶんにまだ年若い身で、お参りというのがはなはだ怪しい」 「まあ」  と、お豊は目をまるくして息をのむ。 「そこでおいらは考えた。お参りとはかりの名、どこかで男とあいびきでもしてたんじゃねえかと。お霜さん、違うかえ」  お霜は涙のうちにも、恥ずかしそうにうなずいてみせるのである。お豊とお鶴は、あきれかえった目を見かわせている。 「ああ、やっぱりそうか。ところで、お霜さんが男と会っているうちに、たいへんなことがもちあがった。だいじな亀之助さんがだれかに盗まれたんだ。お霜さん、そうだろう」 「すみません、すみません」  お霜はまたあらためて泣き伏したが、そばではお豊とお鶴が、いよいよあきれかえっている。 「さあ、たいへんだ。どうしよう、どうしよう、さて、どうしよう。まさか、男といちゃついているすきに、だいじな坊ちゃんを盗まれましたといってはかえれぬ。そこでふと思い出したのが、その日よりかぞえて五日まえのこと」  佐七はちょっと息をつぎ、 「おまえは兄貴が死んだので、八王子へかえっていたが、初七日の翌日に、浅間神社で子どもがわしにさらわれてきたという騒ぎがあった。それがすなわちこの倉作だが、それはともかく、おまえはその騒ぎを思いだすと、とっさの機転で、亀之助さんをわしにさらわれたことにしたんだろう。なあ、お霜さん、おれの話にまちがっているところがあるかえ」  驚くべき佐七の明察に、 「すみません、すみません」  と、お霜はいよいよはげしく泣き入ったが、後家のお豊はほとほとあきれて、 「まあ、なんということをしておくれだったの。お霜さん、それならそうと、あのとき、なぜそうはっきり言ってくれなかったの。そのとき、それをいってくれれば、また捜しようもあったものを。あのときの桔梗屋《ききょうや》さんの嘆きをみれば、いくらなんでもそんなうそを……」  言っても返らぬことながら、お豊はいまさらのように愚痴が出る。  佐七はそれを押しなだめ、 「まあまあ、おかみさん、いまさらいってもしかたのないことだ。それをいうと愚痴になります。お霜さんもああして後悔していることだから、まあ、堪忍しておやりなさいまし。それより、黒亀が片付いたから、さあ、こんどは白亀さんの詮議《せんぎ》といこう」  佐七はよろよろと立ち上がるのである。  亀之助苦肉の計略   ——男は見目やかたちでありません 「あれ、親分さん、その詮議《せんぎ》にはおよばぬこと。ここにいるこのひとが偽物ときまったら、むこうにいるあのひとこそ、ほんとうの亀之助さんにちがいございません」 「なるほど、そうかもしれないが、せっかくここまで来たんだから、ついでに会ってまいりますのさ。さ、辰、豆六、手を引いてくれ」  辰と豆六に手をとられ、佐七がよろよろ出ていくと、そのあとから一同も不安そうな顔をしてぞろぞろついていく。  ことにふしぎなのはお鶴の態度で、いよいよ白亀がほんものときまるのをみると、喜ぶはずなのが、いっこううれしそうでもなく、なにやら気になるふぜいで、ちらちらとそばにいる手代の兵助をぬすみみている。  その兵助はあいかわらず右のほうからみると化け物だが、左半面をみると業平《なりひら》みたいないい男。その兵助も、なににおびえているのか、さっきから妙におどおどしているのである。  さて、一同がゾロゾロと白亀御殿へ入っていくと、ここでも白亀が片腕切りおとされた体を苦しげに寝床のなかへよこたえている。  人形佐七はやおらそのまくらもとにすわると、いやにことばをやわらげて、 「おまえさんが亀之助さんかえ。ゆうべはとんだ災難だったな。くせ者に片腕を切り落とされたそうだが、おまえそれについて、なにか心当たりはないかえ」 「はい、あの、それがいっこう……」 「ないというのかえ。おれの考えじゃ、ひょっとするとその左腕に、なにか証拠になるような目印でもあったんじゃないかと思うんだが、そんなものはなかったかえ」 「はい、あの、それは……」  白亀の与七ははっと当惑したように、目をシロクロさせている。 「たとえば、痣《あざ》だとか、ほくろだとか、なにかそんな目印になるものが左の腕になかったかえ」 「はい、あの、それが……」  白亀はいよいよ当惑そうな面持ちだった。 「いやな、じつはここにいるこのひとは、そのむかし亀之助さんの乳母をしていたひとだが、このひとの話によると、亀之助さんの左の腕には、痣が七つもあったそうだ。それがみんな星の形をした、世にもめずらしい痣だったという話だが……」  聞くなり白亀は身を乗りだして、 「ええ、ありました、ありました。わたしとしたことがとんと忘れて、ほっほっほ」  と、白亀はいやらしく笑いながら、 「たしかに痣がありました。星形をした痣が七つありました」 「ほんとうにあったかえ」 「ええ、ほんとうでございますとも。思えば、ゆうべ片腕を持っていかれたのが悔しい。あれさえあれば、お鶴さんの婿になれるものを」  佐七はプッと噴き出しながら、 「辰、豆六、こいつも縛りあげてしまえ」  お豊もお鶴もこれにはあっと驚いた。  なんということだ。白亀も黒亀も、それではふたりがふたりとも偽物だったのか。  一同はほとほとあきれかえって、しばしものも言えないのである。  白亀はいまさらのように目を白黒させながら、 「あれ、なにをなさいます。あっ、痛ッ、なんでわたしをそのように……」 「なんでもへちまもあるもんか。いま親分のおっしゃたのは、ありゃみんなうその皮、口から出まかせのでたらめよ」 「それにうまうま乗りよって、こいつまんまと化けの皮をはがされくさった。ざま見なはれ。さあ、神妙にしとくれやすや」  辰と豆六が左右から躍りかかろうとすると、 「まあ、まあ、待ってください」  と、白亀はまるでベソをかくような顔をしながら、 「あっ、ちょっとお待ちくださいまし。なるほど、わたしは偽物には違いございませんが、これにはふかい子細のあること。あ、これ、兵助さん、おまえなんとかいっておくれな。おまえさんにこんなことを頼まれたばっかりに、片腕切られたり縛られたり、わたしゃこんなつまらないことはない」  白亀はわっと手放しで泣き出したが、そのときだった。 「お待ちください。この与七さんになんの罪もありません。みんなわたしが悪うございました。わたしが与七さんに頼んで、亀之助——さんの偽物になってもらったのでございます」  と、白亀をうしろにかばって立った男をだれかとみれば、これが意外にも手代の兵助だ。 「あれ、兵助、おまえどうしてそんなこと……」  お鶴はなぜかさっと顔をあからめて、さもうらめしげに兵助をみている。  後家のお豊もおどろいて、おもわずその場にひざをすすめると、 「まあ、兵助、おまえがどうしてこんなことを……」 「堪忍してくださいまし。堪忍して下さいまし。わたしが悪うございました」 「いいえ、ただ悪うございましただけではわかりません。日ごろ忠義なおまえのこと、これにはよくよくの事情があるにちがいない。さ、それをここで話しておくれ」 「はい、あの、それは……」  兵助は首をうなだれ、手をつかえ、ただもぐもぐと口を動かしているばかり。なぜか顔をまっかに染めて、額には汗びっしょり。  佐七はじっとそれを見ていたが、 「兵助さん、ちょっとおまえさんの左腕をみせておくんなさい」  あっとひるむ兵助をつかまえて、佐七がぐいとむりやりに左のそでをまくりあげると、そこに見えたのはまぎれもない亀の甲の形をした証拠の痣《あざ》が……。  佐七はにんまりほほえんで、 「お霜さん、よくみておくれ。これが亀之助さんの痣ではないかえ」 「あれまあ、ほんとに亀之助様、おお、そうおっしゃれば、顔かたちは変わっていても、どこやらお姿が桔梗屋さんの大だんなに……」  お霜ははやおろおろと泣き出したが、それと聞くより、 「あれ!」  と、お鶴はとび立つようにおどろいて、ぴったりと兵助に寄りそうと、 「それじゃおまえが亀之助さまかえ。ええ、胴欲じゃ、胴欲じゃ。あたしの心は日ごろから、あれほどよく知っていながら、いままでそれを隠しているとは、亀之助さま、それはひどい、あんまり胴欲でございます。なんでいままでかくしておいでなさいました」  男のひざにとりすがって、お鶴がさめざめと泣きだしたから、さあ妙な雲行きになったぞと、辰と豆六は目をしろくろ。なかでも白亀の与七がさもうらやましそうにながめているのは、なんともご愁傷さまであった。 「お許しください。お許しくださいまし。お鶴さま、おかみさんも聞いてくださいまし。わたしこそほんとうの亀之助にちがいございませぬ」  手をつかえた兵助の亀之助が、涙ながらに話したところによるとこうなのである。  兵助の義父、元右衛門というのは、もと桔梗屋の番頭で勝三郎といったが、悪事をはたらいたがために、主家を放逐されたのである。  ところが、よくあるやつで、外道のうらみはさかうらみ、じぶんの非はたなにあげ、ぎゃくに利兵衛夫婦をうらんだ勝三郎は、その腹いせに、あの日、須崎弁天で亀之助を誘拐《ゆうかい》し、その足で木更津へ逃げ、名も元右衛門と改めた。  しかも、こいつ、どこまで悪いやつかわからない。もし捜索の手がのびて、亀之助を取りもどされてはならぬとばかりに、がんぜない亀之助の、花のような顔半面に煮え湯をあびせ、すっかり相好をかえてしまったのである。  それから十年後。  元右衛門の勝三郎もさすがに良心にとがめたのか、死ぬまぎわに、はじめて事実を兵助にうちあけ、証拠のふた品もわたしてやった。  はじめてきく意外な話に、兵助もはじめはゆめかとばかりおどろいたが、それでも元右衛門の弔いをすますと、はるばる父母をたずねて江戸へ出てきたが、そのときには桔梗屋はつぶれてしまって、父母はすでにこの世になき人であった。  兵助の亀之助はがっかりした。  いちどはこの世をはかなんで、いっそ死んでしまおうかとさえ思ったが、また思いなおしたのは、元右衛門からきいたことばに、じぶんにはいいなずけがあるという話。子どもごころになつかしく、そのいいなずけの家に、つてを求めて住み込むことになったのである。 「そのじぶん、おりをみて、じぶんの素性を話すつもりでございました。ところが、こちらさまでは、亀之助をわしにさらわれたと思いこんでおいでなさるもように、わたしもなんとやら心もとなく、つい打ち明けかねているうちに……」  兵助も成長すれば、お鶴もりっぱな娘になった。  さあ、こうなると、いよいよ打ち明けにくくなってきた。あの花のようにうつくしいお鶴にむかって、じぶんのような顔はんぶん赤むけ男が、どうしてわたしはあなたのいいなずけだと打ち明けられよう。  兵助はいまはもうすっかりあきらめて、生涯《しょうがい》秘密をつつんだまま、ただ忠節をつくそうと、そう心にきめているところへ、とつぜん、亀之助と名乗るものがあらわれたからおどろいた。 「このままほっておけば、いまにもあの黒亀がお鶴さまと祝言しそうなもようでございます。捨ててはおけない。といって、あいつもりっぱな証拠を持っていることゆえ、むやみに偽物呼ばわりもなりませず、といって、いまさらわたしが亀之助ですと名乗ってでるのも面はゆく……」  この面相でお鶴にきらわれたら、また、世間のものわらいの種となったら……。  と、気のよわい兵助は、とつおいつ考えあぐんだそのすえ、思いついたのが奇妙な一計、むかしなじみの捨て子の与七にたのみこみ、これに亀之助と名乗って出させたのだ。  むろん、あの証拠の品は、兵助自身がかしてやったものである。 「こうして、亀之助がふたり出てきたら、黒亀とてそうやすやすと祝言はできますまい。そのうちに詮議《せんぎ》をすれば、あの男の正体もわかるだろう、そして、あいつの正体さえわかれば、与七さんにも身をひいてもらうつもりでございました。わたしはただ手代として、お世話になったおかみさんや、またお鶴さまに忠義をつくすつもりでございました」  兵助——ではない、いまこそ真実の亀之助の話をきいて、お豊はおもわずもらい泣き。 「亀之助さま」 「はい」 「そなたの志はよくわかりました。身にしみてうれしく思います。あらためてお礼を申しましょう。しかし、男は見目やかたちではありません。さっきのことばで、お鶴の心はおまえさまにおわかりのはず。さあ、いまこそむかしの約束どおり、お鶴と祝言してください」  お豊はみずからお鶴亀之助の手をにぎらせると、人形佐七の顔をみて、 「これで、仏に顔をあわせることができますよ」  と、世にも晴れやかにわらうそばから、 「亀之助さん、なにもそんなにはにかむこたあねえ。おまえさん、右のほっぺさえみせなきゃいいんだ」 「そやそや、左半分みてたら、あんたはん、男でもほれぼれするようなええ男前や。あんたはん、いつも左の顔だけ、お鶴はんにみせておおきやす」  と、辰と豆六が真顔でいったものだから、一同どっと泣きわらい。  お霜残酷物語   ——男はあの手この手と秘術を尽くして  寺男の直助は八王子のうまれ、いつかお豊《とよ》が和尚《おしょう》にむかって、わしにさらわれた恩人の子どものことをはなすのを盗みぎき、ふと思いだしたのが倉作のこと。  おなじようにわしにさらわれたという話をタネに、証拠のふた品を寺からぬすみだし、倉作をなかまにかたらい、ひと芝居うとうとしたのだが、ことあらわれて、それからまもなく捕らえられたという。  それにしても、お霜がわしにかこつけて、じぶんの不始末をひたかくしにかくしとおしてきたのには、ひとつの深い子細があった。佐七が指摘したとおり、お霜はあの日、須崎弁天のほとりにあるあやしげな出会い茶屋の奥座敷で男と忍びあっていたのだが、あっていたあいてというのが悪かった。それは主家を放逐された桔梗屋の元番頭の勝三郎だった。  お霜はあわれな女であった。  そのころ定吉というしがないたたき大工の亭主《ていしゅ》があって、夫婦のあいだに男の子がうまれたが、その子がうまれるとまもなく死んでしまった。  そこで、乳があまってこまったのと、もうひとつには、亭主の定吉というのがひとが良いばかりのうえに、蒲柳《ほりゅう》の質とでもいうのか、もうひとつからだが丈夫でなかった。いきおい仕事をやすむことがおおく、暮らしむきにもこまるところから、縁あって桔梗屋へ、亀之助の乳母として住みこんだのである。  そのころお霜ははたち前後、渋皮のむけた、ちょっとしたよい器量だった。ことに色白で、ポッチャリとした肉置《ししお》きは、いかにも男の好きごころをそそるようだった。  そのお霜を土蔵へひっぱりこんで、むりむたいに関係をつけたのが、そのじぶんまだ桔梗屋の番頭をしていた勝三郎だった。  お霜はむろん抵抗した。かんにんしてと泣いてたのんだ。しかし、番頭というあいての肩書きのおもみが、まだ住みこんだばかりのお霜のうえに大きくのしかかってきたことは否めない。  お霜はとうとう思うぞんぶん男におもちゃにされたばかりか、あの手この手と秘術をつくして責めたてられているうちに、女のさがの悲しさには、いつかわれを忘れてとり乱してしまった。力いっぱい男のからだを抱きしめ、抱きしめ、身をもだえにもだえて、ひた泣きにないてしまった。  こうなると女は弱いものである。それからのちは、男に目顔でさそわれると、いやとかぶりをよこにふれなくなってしまった。いや、頭をよこにふるどころか、勝三郎にあじな目つきで誘われただけで、お霜はからだがカーッと燃えてくるのである。  こうして、あわれなお霜は、主人や亭主や世間にたいして顔むけならぬ秘密をもつ身になってしまったが、そこがまた勝三郎のつけめであった。  そのころすでに、お店の金をごまかしてばくちにうちこんでいたような男のことだから、お霜のような経験のあさい女をむがむちゅうにするくらいは、朝飯まえのことだったろう。  それに、ひとがいいばかりのうえに、がんらい蒲柳《ほりゅう》の質ときている亭主にくらべると、勝三郎はお店者《たなもの》にはふにあいなほど、たくましい、よいからだをしていた。  ことに、はだかになるとみごとだった。色は浅黒いほうだが、肩幅もひろく、胸板もあつく、どの筋肉も隆々とそびえて威勢がよかった。勝三郎はよくはだかになって、男の威容をほこってみせ、お霜の息のはずんでくるのをみすましては、すばやく脱がせてしまうのである。  浅黒くひきしまった勝三郎のからだと、色白でポッチャリとしたお霜の四肢《しし》ががっきりと絡みあって、はげしく躍動するとき、対照の妙をえてみごとだった。  お霜はいつも心のなかでは後悔しながら、男のほこる威容のまえに屈してしまい、すきほうだいなまねをされてしまうのだが、しかも、お霜にとってそれは、脾弱《ひよわ》で、デクの棒のような定吉などからは、想像もおよばぬほどの強烈な悦楽だった。  こういう関係は、勝三郎の使いこみがばれ、桔梗屋を放逐されてからのちも、ひそかにつづけられていた。あいてを悪い男としりながら、お霜のからだはその心とはうらはらに、勝三郎にひかれていくのである。  そして、あの運命の霜月十三日。  あのときも、お霜は勝三郎の腕のなかにいた。ふたりとも一糸まとわぬはだかであったことはいうまでもない。腹にいちもつある勝三郎は、その日はとくに入念に、あの手この手と秘術をつくして、お霜をむがむちゅうにすることに男の精根をかたむけたからたまらない。  お霜はそのさいちゅうに、ふすまひとえのとなり座敷にねかせてあった亀之助のけたたましい泣き声をきいたような気がしたのだが、そのせつな、勝三郎のほこる豪のものが、しゃにむに、ここをせんどと攻撃をくわえてきたから、お霜はひとたまりもなく男の術中におちいってしまった。お霜は身をよじりによじり、ひた泣きになきむせびながら、男のあたえてくれる歓喜の津波のなかに、すべてをわすれて身をおぼらせた……。  よいあとは悪いとは、まったく、このときのお霜のことだった。  それからまもなく、男の悪だくみに気がついたときには、すでにあとの祭りだった。亀之助は勝三郎の一味のものにかどわかされて姿もなかった。  しかも、その日をさいごに、勝三郎もお霜を捨てて、ゆくえをくらましてしまった。  お霜はそのとき、よっぽどすべてを打ち明けて、首でもくくって死のうかと、なんど思ったかわからない。しかし、まだわかかったお霜には、その勇気がかけていた。  その勇気を、お霜は十七年のちのきょうとなって取りもどしたらしい。  その年の、十月なかばの黄道吉日をえらんで、お鶴亀之助がめでたく祝言の杯をかわし、偕老《かいろう》同穴とやらのちぎりをむすんだ、さてその翌朝のこと。  芝金杉にある桔梗屋の菩提寺《ぼだいじ》、妙心寺の墓地にある桔梗屋代々の墓をおおうている大きなからかさ松の枝から、みずからくびれてぶらさがっているお霜のあわれな死体が発見された。  つめたい秋雨が、しぶくように降る朝だったという。     きつねの宗丹《そうたん》  おしゃべり床屋   ——赤合羽|饅頭笠《まんじゅうがさ》のくせ者が  きつねの宗丹が殺された。  殺されてきつねの正体をあらわした。宗丹はやっぱりきつねであったそうなといううわさは、当時江戸中で大評判だった。  きつねの宗丹、本名を渋川宗丹といって町医者である。町医者といってもバカにはならない。  そんじょそこらのしがない竹の子の医者とちがって、宗丹は牛込|神楽坂《かぐらざか》に堂々たる門戸をはり、出るにもはいるにも黒塗り網代《あじろ》のりっぱな乗り物、くわい頭のお供がついて、どうかすると大名屋敷からもお迎えがこようという身分。  いったい、医者というやつはむかしから、技術がよいだけでははやらない。  風采《ふうさい》がよくて、如才がなくて、てきとうに横柄で、おたかくとまって、身辺をかざっていなければならない。  つまり、ヤマコを張るというやつである。  渋川宗丹はそのてん、申し分ない資格をもっていた。  としは四十五、たけたかく、色あさぐろく、鼻がピンとたかくて、目つきが鋭い。  いつもにが虫をかみつぶしたような顔をしているところは、芝居の敵役みたいにあいきょうにとぼしいが、そのかわり威厳があって名医らしい。  宗丹もじぶんの容貌《ようぼう》押し出しをよくこころえているとみえて、当時医者といえば、坊主頭かくわい頭としたものだが、宗丹にかぎって四方髪、生絹の道服に茶宇の法眼袴《ほうげんばかま》をはき、鮫皮《さめかわ》の小わき差しというのだから、とんと芝居に出てくる由比正雪といったかっこうである。  これで黒塗り網代を乗りまわすのだから、まっとうな医者にはよくいわれない。  あいつは山師だ、きつね医者だ、あいつのつらをみるがいい、目がつりあがって、口がとんがって、きつねにそっくりじゃないか。  きつねのさじ加減なんてあやしいものだ。世のなかは盲千人というが、きつね医者にたぶらかされるなんて情けないはなしだ、などと、そこは法界|悋気《りんき》もまじって悪口をいう。  これがいつかつたわって、神楽坂のきつね医者、きつねの宗丹と評判がたかくなったが、それがちっとも人気にさわらないのだからえらいものである。  宗丹もまたひとをくったやつで、きつねの宗丹の評判がたかくなると、みずからきつねを飼いだした。  どこで手にいれたのか、老白ぎつね、いかにも化けそうなやつを、これみよがしに飼いはじめたから、きつねの宗丹の評判もいよいよたかくなり、ちかごろでは、さすがは宗丹先生である。  飼うものにことかいてきつねとは恐れいった。  やっぱり一見識持った人はちがったものだとうれしがるやつもでてきて、いつのまにやらきつねのあだ名も、きつねを飼っているところから出たものであろうと勘ちがいするそそっかしいのもでてくるしまつ。  それでこのままことがすめば、市《いち》が栄えてめでたしめでたしというところだが、どっこいそうはいかない。ここにひとつの椿事《ちんじ》が持ち上がったのである。 「へえ、あれはたしか朝の五つ半ごろ(九時)のこってしたねえ。兄いもご存じのとおり、きのうはいちんちじゅうビショビショ秋の小雨が降ってました。そんなお天気の日にゃ、ご近所のわけえ衆が暇つぶしにやってきて、むだばなしに花を咲かせるんですが、どういうものかきのうはひとりも客がこなかった。もっとも、朝が早かったせいかもしれませんがね。で、あっしゃ店をひととおり掃除させると、下剃《したぞ》りの留の野郎は使いにいったし、で、まあ火ばちをかかえて一服やっていたんです。きのうはみょうに底冷えがしましたからねえ。ところが、そのうちひょいと向こうをみると、お濠端《ほりばた》の柳のしたに……いや、そうじゃねえや。それよりまえに金太さんがやってきたんだっけ。いや、やっぱりそうじゃねえ。お濠端のがさきだった……いや、そうじぇねえかな。金太さんがさきだったかな。さあ、わからなくなりゃアがった。お濠端がさきか、金太さんがあとか、金太さんがさきか、お濠端があとか……」 「おい、おい、親方、なにをいってるんだよう。おいらがききたいのはきつね医者の一件だ。お濠端も金太さんもあるもんか」 「そやそや、金太さんのとび出すのは飴《あめ》のなかときまったもんや。うだうだいわんと、はよきつね医者の話をせんかいな」  と、こう左右から詰めよったふたりを、いまさらどこのだれとご紹介申し上げるまでもあるまい。  神田お玉が池は人形佐七のふたりの子分、おなじみの辰と豆六である。  ところで、ここをどこかというと、神楽坂《かぐらざか》をくだったところ、牛込|見附《みつけ》のかどにある神楽床《かぐらどこ》という髪結い床。  親方は長吉といって、いたってノンビリとした人物である。その長吉親方、辰と豆六に左右から詰めよられ、汗と頭をかきながら、 「いや、どうもすみません。わっしゃどうも口っぺたでね。それで、その、なんです。つまり、そのお濠端に……」 「おい、おい、親方、そのお濠端はどうでもいいから、きつねの一件を……」 「いや、さにあらずさ。これから話をしていかないとわからねえ。でね、あっしがひょいと向こうをみると、ほら、あの柳のしたでさあ。男がひとり立っているんです。饅頭笠《まんじゅうがさ》に赤合羽、徳利のわかれの赤垣源三《あかがきげんぞう》みてえな野郎だが、どうもようすがへんなんです。あっしゃアはじめ、立ち小便でもしてるんだろうぐらいに思ったがそうじゃねえ。妙にウロウロしてるところをみると、だれかを待っているらしいんだが、それにしてもへんなところで待ち合いの約束をしたもんだ。どじょうじゃあるめえし、なにも雨のふる日の柳のしたなんかえらばなくてもよさそうなもんだと、そんなことを考えてるところへはいってきたのが金太さんで。そうだ、やっぱり金太さんのほうがあとだったね」 「いったい、その金太さんてのはなにものだえ」 「なに、このすぐちかく、東五軒町のうらだなに住んでる経師屋の職人ですがね、せんだってから、おかみさんが悪くてねついている。その金太さんがやってきていうのにゃ、このあいだから宗丹さんにお願いしてみたが、貧乏人とあなどってかきてくださらぬ。きょうはここをお通りになるという話だから、途中でつかまえて、ぜひともじきじきお願いしなきゃアならねえ。しばらくここで待たせてくれろ、と、こういうんです」 「ふむ、ふむ、それでどうした」 「べつにどうってことはありませんや。そんなことならおやすいご用だ。さあ、さあ、こっちへはいって一服おすいなさいというわけで、まあ、いろいろ話をしてたんです。で、赤垣源三のほうはつい忘れていたんですが、そこへ坂のうえからやってきたのが宗丹さんの網代駕籠《あじろかご》、れいによってお弟子の珍石さんがついている。そら、宗丹さんがやってきたよ、お願いするならいまだ、と、あっしがしりをつついたもんだから、金太さん、あわててとび出した。ところが、そのときなんです。柳のしたからとび出したのが赤垣源三、バラバラと駕籠のそばへ寄ったかとおもうと親の敵、思いしったか……と、いったかどうかはしりませんが、かくし持ったる抜き身を、ぐさりと、駕籠のなかへ突きさしたんです」  師匠の敵   ——駕籠のなかにはきつねの死骸《しがい》が 「なるほど、それからどうした」 「どうもこうもありませんや。なにしろ、あまりだしぬけだからね。みんな、あっけにとられてしまった。駕籠かきの衆も珍石さんも、ボンヤリ立ってみているんです。金太さんもここをとび出したのはよいが、そんなさわぎだから雨のなかに立ちすくむ。そのすきに赤垣源三、ブスブス駕籠《かご》をさしとおすと、抜き身をさげてそのままバラバラどっかへ逃げてしまやアがった。こうして話をするとながいようだが、ほんとはあっというまの出来事でね。つかまえようにもなにも、そんな才覚のでるひまもねえ。で、野郎、まんまと逃げてしまやアがったが、そのあとがたいへんだ」 「つまり、宗丹がきつねになったというわけやな」 「へえ、そうなんで。珍石さんがやっと気をとりなおして、おそるおそる駕籠の戸をひらいてみたところが、古ぎつねがいっぴきあけにそまって……それもあなた、生絹の道服に法眼袴《ほうげんばかま》、鮫《さめ》のわき差しという宗丹さんのすがたをそのままだから、これにゃみんな、あっとばかりに肝をつぶしましたね。いや、なんしろたいへんなこってさ」  神楽床の長吉は、顔をしかめて、そこでトンと火ばちのかどをキセルでたたいた。  辰はひざをのりだして、 「それでなにかい、親方、その駕籠に宗丹さんが乗ってたなアたしかかい」 「へえ、それゃもうまちがいはありません。といったところで、あっしゃ見たわけじゃありませんがね、駕籠かきがそういうんです。げんに、玄関まで送りだした奥さんが、駕籠の戸をおしめになって、いっていらっしゃいといったんだそうで」 「ふうむ、それからどうしたい」 「どうしたもこうしたもありませんや。そのうち、おいおい野次馬があつまってきて、わいわいという騒ぎになった。あんまり騒ぎたてられると外聞にさわりますからね。珍石さん、ぴったり駕籠の戸をしめると、駕籠の衆をいそがせて、そのまま引き返してしまいましたが、なに、もういけませんや。そいつをみたなアひとりやふたりじゃねえ。おおぜい見ているんですから、たちまちパッと評判が立って、いや、もうたいへんな騒ぎです」 「ふむ、そこまではおいらもきいてきたんだが、そのあと宗丹の家じゃどうだ。宗丹のすがたはみえねえか」 「みえるどうりはありませんや。殺されて、きつねの正体をあらわしたんだから。いや、これは冗談ですがね。宗丹さんのほうでもことがことだから、まだ、表立てにはいたしませんが、どうも宗丹さんの姿はみえねえようです」 「すると、やっぱりきつねやったんかいな。ときに、宗丹のうちちゅうのはどうやねん。家族は?」 「お蓮《れん》さんというご新造、これはのち添いでまだ若い。さあ、三十になるかならずでしょう。ずいぶんきれいなひとです。それからお嬢さんがひとり、琴路さんといって、神楽坂小町といわれるほどのべっぴんでさ。ほかにお弟子の珍石さん、まだ若いがなかなかしっかりしたひとです。そのほか女中や飯たき、お駕籠の衆などおおぜいいますね」 「すると、駕籠はおかかえだね」 「それはむろん。あれだけはやる医者ですからね、辻駕籠《つじかご》などにゃ乗りゃアしません」 「ときに、赤垣源三だがね。そいつどういう人間だかわからないかね」 「さあ……それがねえ、なにしろさっきもいったとおり、饅頭笠《まんじゅうがさ》の赤合羽でしょう。人相風体、とんとわからねえんでさ」  辰と豆六はそれからいろいろ聞いてみたが、神楽床の親方も、それいじょうのことはなにも知らなかった。  そこで、経師屋の金太のところを聞いたふたりは、それから東五軒町へまわり、さらに神楽坂の宗丹の家をのぞいてみたが、べつにこれといって得るところもなく、ぼんやりかえってきたのがお玉が池。 「どうだ、辰、豆六、なにかあたりがついたか」  と、佐七にきかれ、 「それがねえ、どうも妙なぐあいです」 「親分、まったくきつねにつままれたような話や」  と、かわるがわる神楽床の長吉にきいてきたはなしをすると、 「でねえ、経師屋の金太にあって聞けば、なにかわかると思ってまわってみたんですが、それがまたいっこうとりとめがねえ。ただひとつ、れいの饅頭笠に赤合羽という赤垣源三の化け物みたいな男ですがね。そいつが切りつけたとき、たしか、師匠の敵、思いしったか、というようなことをいったような気がするというんですが、これもハッキリしねえんで」 「師匠の敵……? 師匠の敵といったんだな。師匠の敵、思いしったか……?」  佐七はしばらく考えこんでいたが、 「ときに、その金太だが、そいつどうしてその時刻に、宗丹の駕籠がそこを通ることをしっていたんだ」 「ああ、そらこうだす。金太のかみさんちゅうのんが長いことわずろうている。それで宗丹さんにたのんだが、宗丹め、あいてを貧乏人とあなどってか、じぶんはこずに、いつも代脈の珍石をよこしよる。金太は女房の容態がはかばかしくないにつけ、ぜひいちど宗丹先生にみていただきたいと、このあいだじゅうから頼んでたところが、きのう珍石がやってきていうのんに、そんなら、あしたこれこれこういう時刻に、神楽坂のしたで待っとって、じきじき宗丹さんに頼んだらよかろうと、こう知恵をつけてくれたんやそうだす」 「ふうむ。すると、そこで宗丹の駕籠をとめろと入れ知恵したのは珍石か。はてな」 「親分、どうかしましたかえ」 「だって、つもってもみねえ。もし、その場に赤垣源三の化け物があらわれなくても、宗丹の駕籠はそこでとめられることになっていたんだ。駕籠をとめて戸をひらくと、宗丹のかわりに古ぎつねが乗っている……というのが、はじめからできていた狂言の筋書きじゃあるめえか」 「へえ? すると、親分、宗丹と古ぎつねをいれかえたのは珍石だというんですか。しかし、駕籠はうちを出てから途中いちどもとまりゃアしなかったといってますぜ」 「それなら、はじめから宗丹のかわりに古ぎつねがのっていたんだろ」 「め、めっそうな。わてらふたりの駕籠かきに聞いてきたんやが、たしかに宗丹の乗るのをみたいうてましたぜ」 「もっとも、宗丹が駕籠にのるときには、玄関の式台のところまで駕籠をもっていき、駕籠かきは少しはなれた外の戸で待っているのがいつものことで、宗丹が駕籠にのると、ご新造のお蓮さんか、弟子の珍石があいずをして、駕籠かきを呼びよせるんだそうです」 「そうれみろ。宗丹はそこで乗ったとみせてうらへ抜けたんだ。きのうはあのとおりの雨でうすぐらかったし、玄関さきにゃ植え込みなどもしげっていよう。そいつをつかって宗丹め、まんまと駕籠抜けしやアがったにちがいねえ。むろん、新造も珍石もぐるにきまっている」 「なるほど、そこでからの駕籠じゃ気付かれるから、古ぎつねを身代わりに入れる……」 「しかし、古ぎつねを患者の家までかついでいくわけにはいかんさかいに、金太をつかって途中でとめさせ、や、や、や、宗丹さんがきつねになったと、びっくりしてみせようという趣向のところへ、赤垣源三がとび出したもんやさかい、いっそうことがほんまらしゅうなったというわけだすかいな」 「そうよ。だいたい、そんなところだろう」 「しかし、親分、宗丹のやつ、なんだってそんなややこしい狂言を書きゃアがったか」 「さあ、それよ。それをこれからさぐっていかにゃならねえが、どっちにしても宗丹め、いまごろどこかで赤い舌をペロリと出しているにちがいねえ」  だが、佐七の推察はまちがっていたのである。  佐七の黒星   ——渋川宗丹は切りきざまれて 「親分、た、たいへん、一大事しゅったい」  起きぬけに、近所の銭湯へとびだしていった辰と豆六が、顔色かえてかえってきたのはその翌朝のこと。  佐七は飯をおわって、爪楊枝《つまようじ》をつかっていたが、辰の声にまゆをひそめて、 「な、なに、一大事しゅったい? いったい、なにごとが起こったんだ」 「なにごとが起こったなんて、そないにおさまってたらあきまへんがな。親分、こんどこそあんたの黒星だっせ」 「はて、おれの黒星? おい、おい、ふたりとも気を持たさねえでハッキリいわねえか」 「へえ、いまいおうと思うていたところだ。親分、渋川宗丹が殺された」 「げ、宗丹が殺された? そ、それはほんとか」 「だれがうそなんかつきまっかいな。けさ、大曲がりのところで、宗丹の死体がうかびあがったそうや。みるもむざんに切り殺されてたちゅうはなしだす」  佐七はどきっとしたように、ひとみをすえてかんがえていたが、やがてきっと立ち上がると、 「お粂《くめ》、支度だ」 「あいよ」 「わっ、親分、ちょっと待っておくんなさい」 「わてら、ご飯がまだやがな」 「勝手にしろい」 「ちえっ、そらせっしょうな」 「じぶんがすんでると思っていい気なもんだ。よし、早飯早ぐそ芸のうちだ。豆六、いそいで茶づっていこう」  まるで火事見舞いみたいなさわぎで、それからまもなく三人が大曲がりまできてみると、ちかごろの秋の長雨で、水かさました江戸川からひきあげられた死体は、すでに自身番へひきとられていた。 「ごめんくださいまし。またひょんなことが起きましたそうで」  佐七の一行がはいっていくと、死体をとりまいている数人の男女が、ひょいとこちらをふりかえった。 「おや、これはお玉が池の親分、よくおいでくださいました。さあさあ、こちらへ……ああ、お引き合わせいたしましょう。こちらが宗丹さんのご新造お蓮さま。そのおとなりがお弟子の珍石さん、それからそこにいられるのが向井玄庵《むかいげんあん》さま。東五軒町にお住まいのお医者さまでございますが、とりあえず死体を見ていただきました」  町役人のあいさつに、 「これは、これは、皆様おそろいで。このたびはまた、とんだことでございました」  佐七はさりげない目付きで、いちどうの顔を観察している。  お蓮さまはなるほどうつくしい。  白蓮《びゃくれん》の花弁をおもわせるような、ねっとりと厚みのあるうつくしさのなかに、年増女の情血がうずくようにかよっている。  弟子の珍石は三十四、五、苦みばしったよい男で、くわい頭などさせておくのが惜しいようだ。ふたりとも佐七の名をきくと、おびえたように目を見かわした。  向井玄庵というのは、つるのようにやせほそった老医で、うすい髪の毛をくわいにむすび、ショボショボとしたあごひげをはやした人物。  中風の気でもあるのか、ひっきりなしに首をふるのが、いかにも貧乏ったらしいかんじである。  佐七はひざをのりだして、 「先生、傷のもようは?」 「それがさ、ずいぶんひどいことをしたものじゃな。ごらん、胸のこのひとつきで宗丹どのは死んだはずじゃ。それにもかかわらず、手脚といわず、無茶苦茶に切りさいなんだのは、よくよく遺恨があってのことと思われる、いや、宗丹どのもとんだ目にあわれたものじゃ。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」  なるほど、縦横無数の切り傷は、かぞえてみれば十カ所あまり、ぞっと目をそむけずにはいられぬほどの凄惨《せいさん》さであった。 「先生、それではこの傷は、宗丹さんが殺されてから……」 「さよう。だからむごたらしいというのじゃ。宗丹どのはさいしょのひと突きでこと切れたはずじゃからな」  佐七は死体のそばへより、くわしく傷口をあらためたが、そのとき、ふと目にうつったのは、切り傷いがいいちめんに、宗丹の皮膚をおおうているふしぎな斑点《はんてん》である。宗丹ははんぶん額が抜けおちて、顔といわず手脚といわず、いちめんにあやしい紫色の斑点ができていた。 「ご新造さま、この斑点はどうしたのでございます」  佐七がきくと、お蓮さまと珍石はどきりとしたように目を見あわせたが、やがてお蓮さまが蚊のなくような声で、 「さあ、わたくしいっこう存じません」 「ご存じねえ? それじゃ、宗丹さんにゃこんな怪しい斑点はなかったとおっしゃるんで」 「はい」  佐七はじっとうなだれたお蓮さまのもようを見つめていたが、やがてほろにがい微笑をもらすと、 「先生、この斑点はなんでしょうね」 「さあて、これはわしにもわかりかねるな」  玄庵も首をひねっていた。 「ときに、ご新造さん、宗丹さんはいつごろから、お屋敷にいなくなんなすったんです」  お蓮はまたちらりと、珍石と目を見かわしていたが、やがてせつなげに息をつくと、 「そのことならば、あなたもおうわさをご存じでしょう。だんなさまは一昨日の朝、家をおでになったきり……」 「きつねになって殺されたとおっしゃるんですかえ。しかし、ここにこうして死体があるのは妙じゃありませんか。先生、宗丹さんはおよそいつごろ殺されたんでしょうね」 「さあて、だいたいきのうの真夜中ごろのことだろうな」 「ご新造さん、そうすると宗丹さんは、きのうの晩まで生きていなすったということになるが、それまでどこにいらしたんでしょうね」 「さあ、それは……」 「珍石さん、あなたもお心当たりはございませんか」 「はい、いっこう」  きっぱり答えたものの、珍石のくわい頭がかすかにふるえているのを、佐七は見のがさなかった。 「いや、おわかりにならなければならないで結構でございます。しかし、もうひとつぜひともお尋ねしたいのですが、一昨日牛込|見附《みつけ》できりつけたくせ者について、なにかお心当たりはございませんか。そいつはたしか、師匠の敵といったというんですがねえ」 「師匠の敵……?」  だしぬけに声を立てたのは玄庵だった。  佐七は驚いてふりかえると、 「先生、あなたなにかお心当たりがございますか」 「ああ、いや、べつに心当たりと申しては……」 「先生、ご存じのことがあったら、かくさずいってくださいよ。かりそめにもこりゃ人殺し。ねえ、先生、けっしてあなたにご迷惑のかかるようなことはいたしません」 「ああ、ふむ、いや、わしにもハッキリとしたことはいえぬが、影山|蘭渓《らんけい》どののことを思い出したもんだからな」 「なんです。影山蘭渓というのは」 「医者よ。医者は医者でも蘭方医《らんぽうい》よ。芝高輪《しばたかなわ》にすんでいて、当時江戸では北の宗丹、南の蘭渓とうたわれたもんだが、二、三年まえ、切支丹《きりしたん》との訴人をうけてとらえられ、牢屋《ろうや》のなかで死んでしまった。ところで、これは世間の評判だからあてにはならぬと思うが、蘭渓どのを訴人したのは宗丹と、当時もっぱらいわれたものだ。真偽のほどはわからぬが、宗丹どのの蘭学ぎらいは、むかしから評判だからの」 「すると、なんですか、先生の蘭渓さんの弟子というのが、宗丹さんをねらっていたと……」 「いや、いや、ハッキリと断言はできぬが、師匠の敵ということばからかんがえると……蘭渓さんにはたしか高瀬十三郎といって、若いながらもよい弟子があったのをおぼえている。いや、しかし、どっちにしてもわれわれのようなしがないやぶ医者にはかかりあいのないことじゃな。あっはっは!」  張り子のとらのように首をふりふり、向井玄庵はひからびた声をあげた。  それこそ、敗残者の悲しいうめき声のようなわらいかただった。  嘆きの琴路   ——下手人は母と珍石でございます 「親分、どうしてお蓮と珍石をあげてしまわねえんです。宗丹を殺したなア、あのふたりにちがいありませんぜ」 「そや、そや、あいつら不義をはたらいてるにちがいおまへん。そこで宗丹を殺したが、それだけではすぐばれる心配があるさかい、きつねなんか使いくさって、世間をごまかしよったにちがいおまへん」 「ふむ、それもひとつのみかただが、しかし、宗丹が殺されたのは、きつねの一件よりあとのことだぜ」 「それゃアきっと、きつねの一件で世間をごまかし、宗丹をどこかへ押しこめておいて、夜になってバッサリやったにちがいねえ。そして、死体はこっそりと江戸川へ沈めてしまうつもりのところ、運悪く浮きあがったのじゃありますまいか」 「ふむ。まあ、それも考えられるが、おれにはもひとつ、ふに落ちぬことがある」  それからまもなく、大曲がりの自身番をでた人形佐七は、なにか思案にくれながら、お玉が池へかえってきたが、すると意外にも、ひとあしさきにきていたのは、宗丹の娘の琴路であった。 「親分さん、父の敵を討ってくださいまし。父を殺した下手人を、すぐひっくくってくださいまし」  佐七の顔をみるよりはやく、琴路はわっと泣きくずれた。  なるほど、神楽坂小町といわれるだけあってよいきりょうであった。 「下手人をすぐひっくくってくれ……? 琴路さん、それじゃおまえさんには下手人の心当たりがありますか」 「はい、下手人は母と珍石にちがいございませぬ」  琴路のいうのも辰や豆六とおなじであった。  ふたりは不義をはたらいていて、じゃまになる父を殺したにちがいない。  琴路はそういってくやしがるのである。 「なるほど。しかし、おまえさんは、ふたりが不義をはたらいていたというたしかな証拠をお持ちですか」 「さあ……」  琴路はちょっと鼻白んだが、 「いえ、いえ、ああいう利口なふたりゆえ、わたしなどにしっぽをつかまれるようなヘマなことはいたしませぬが、この半月ほどふたりは、父をひと間に押しこめて、わたしにさえ会わさぬようにしていたのでございます」  佐七はそれをきくとおもわず目をみはった。 「なに、おまえさんにも会わさぬように……?それじゃ、おまえさん、この半月ほど宗丹さんにお会いなさらねえんで」 「はい、父はここしばらく、だれにも会いはいたしませんでした。それというのも、母や珍石が……」 「ちょっとお待ちくださいまし。それじゃおまえさんは、宗丹さんの髪がぬけたり、体中に紫色の痣《あざ》みたいなものができているのをご存じですかえ」  琴路はおどろいて目をまるくした。 「髪が抜けて……? 紫色の痣ができて……?まあ、どうしましょう。それじゃ、きっとあのふたりが、父に毒をもっているにちがいございません。親分さん、どうぞこの敵を討ってくださいまし」  琴路はくやしそうに身をふるわせて、いよいよはげしく泣きむせんだ。 「そうれ、ごらんなせえ。だれの見る目もおなじでさ。親分、これからいって、すぐにお蓮と珍石を……」  琴路がかえったあと、辰と豆六はいきり立っていた。  佐七はしかしそれでもまだなにか気がかりなところがあるらしく、 「まあ、待て。お蓮と珍石、毒をもって殺せるものなら、なにもあんな手荒なことをして宗丹を殺すこともあるめえじゃねえか。それに、あの痣《あざ》、抜けおちた額……おれにはなんだかふに落ちねえところがある。ときに、辰、豆六」 「へえ」 「さっき玄庵さんのいっていた影山蘭渓という蘭方医、そいつの弟子でなんとかいっていたな」 「高瀬十三郎って男のことですか」 「そうそう、その高瀬十三郎だ、おまえひとつ、そいつのありかをつきとめてくれ」 「へえ。すると、その十三郎が、師匠の敵とばっかりに……」 「いや、まだそこまではいえねえ。まあ、こんな一件に早合点は禁物よ。とにかく、ひとつそいつを探しだしてくれ」 「おっと合点だ」  ふたりはすぐさまとび出したが、やがてその晩、妙なかおしてかえってくると、 「親分、どうも高瀬十三郎というやつがあやしい」 「おやおや、さっきまではお蓮と珍石をふんじばれといっていたが、こんどは高瀬十三郎に乗りかえたか。十三郎がなにをやらかした」 「さあ、それでんがな。わてらはじめ芝高輪をたずねていきましたが、むろん、そこにはおらしまへん。そこでいろいろきいてまわっているうちに……」 「宗丹の住まいのつい鼻のさき、築土八幡《つくどはちまん》のすぐしたにうつり住んでるんです。そればかりじゃねえ。きょうわれわれが引き揚げたあと、かかりあいのものだがと名乗って、大曲がりの自身番へやってきて、宗丹の死体をあらためていったやつがあるというんですが、どうやらそれが十三郎らしいんで」 「十三郎が死体をあらためていった……? そして、そのままとりにがしたのか」 「へえ、町役人はてっきり宗丹の弟子かなんかと思ったんですね。服装が医者にできているから。それでまあ、ついなにげなくかえしてしまったというんですが」  佐七はだまって考えていたが、やがて、 「よし、筑土八幡のしたといったな。それじゃこれから出かけてみようじゃねえか」  佐七はすっくと立ちあがった。  玄庵《げんあん》珍石薬くらべ   ——高瀬十三郎は毒をのんで  筑土八幡《つくどはちまん》の坂のした、豆腐屋と酒屋のあいだの路地の、危なっかしいどぶ板をふみならしてはいっていくと、おくから三軒目が高瀬十三郎のわび住まいである。  家のなかからあかりの色がもれているところをみると、いいぐあいに十三郎は在宅らしい。  佐七が目配せすると、辰が心得て、格子戸をとんとんたたきながら、 「もし、高瀬さん、ご在宅でございますか。ご在宅ならばちとお目にかかりたいんでございますが。もし、高瀬さん」  声をかけたが返事はなく、家のなかはしいんとしずまりかえっている。 「親分、留守でしょうか」 「そんなことはあるめえ。ああして行灯《あんどん》の灯がついているんだから。酒にでもくらい酔って、ねているんじゃねえか。もういちどたたいてみろ」 「へえ」  とこたえて、辰が、 「あ、もし、高瀬さん」  と、格子をたたきかけるのを、 「おい、辰、待て」 「へえ、親分、どうかしましたか」 「ありゃアなんだ、うめき声じゃねえか」 「え? うめき声……?」  辰と豆六はドキッとして、息をひそめてきき耳を立てたが、いかさま、家のなかからきこえてくるのは、世にもいうようなうめき声。 「お、親分、あら、やっぱりうめき声だっせ」  佐七ははっと顔色かえて、 「しまった! 遅かったか……それ、辰、豆六」 「おっと、がってんだ」  がたぴしの格子戸をむりやりにけやぶってなかへとびこむと、はたして、ほのぐらい行灯《あんどん》のしたで、わかい男が血へどをはいて、七転八倒、畳のケバをむしっている。  まだ二十二、三の、いかにも医者の弟子らしい風体、色白のよい男振りである。 「辰、豆六、これはたしかに十三郎だな」 「そうです。そうです。親分、こいつ逃れぬところと観念して、じぶんで毒をのみゃアがったにちがいありませんぜ」 「バカアいえ。そこを見ろ。お釜《かま》のなかにちゃんと米がといであらア。自害をするやつが、あしたの米をとぐものか」 「あっ、なるほど。そういえばそうやな。さすがに親分はお目がたかい」 「つまらねえことに感心してねえで、豆六、おおいそぎで玄庵先生と珍石をよんでこい。毒をのんで死にかけているものがあるから、解毒剤の用意をおねがいしますというんだ。ああ、そうだ。ついでに、患者は蘭渓さんのお弟子の十三郎だといってこい」 「へっ」  豆六ははとが豆鉄砲をくらったような顔をしてとびだしていく。  あとでは佐七がかいがいしく、 「辰、できるだけ十三郎に水をのませろ。げっと吐くまで飲ませるんだ。ちっ、なにをまごまごしてやアがるんだ。早く、ひしゃくに水をくんでこい」  辰がおおあわてながら、ひしゃくに水をくんでくると、佐七はそれを十三郎の口にあてがって、 「これ、十三郎さん、しっかりしねえ、大丈夫だ。きっとたすかる」  十三郎も医者である。  苦しいうちにも必死の勇をふるって、ゴクンゴクンと水をのんでいたが、やがて佐七がみぞおちのあたりをつよく押してやると、げっとたくさん汚物を吐いた。 「よし、吐いたな。辰、もっと水をくんでこい」  なんどもなんども、そういうことを繰りかえしているうちに、十三郎はほとんど胃のなかのものを吐いてしまった。 「よしよし、それくらい吐きゃ大丈夫だ。おい、十三郎さん、気をしっかり持ちなせえよ」  ふたりが介抱しているところへ、あたふたと駆けつけてきたのは玄庵と珍石である。  珍石のうしろには、お蓮と琴路も、青白んだ顔をしてついている。なにかしらようすありげな十三郎の服毒さわぎに、不安の胸をいだいてついてきたのである。  玄庵は十三郎のようすを見るなり、 「や! や! や! とうとう自害をはかったか。それじゃ、やっぱりこの男が、師匠のかたきと宗丹どのを……」 「先生、そんなことはどうでもよろしゅうございます。それよりも、一刻もはやく手当をしてやってください。珍石さん、おまえさんにもお願いいたします」 「よし」  玄庵は薬箱をひらいて、さっそく薬を煎《せん》じにかかる。珍石も佐七にうながされて、おなじように薬を煎じた。  玄庵は薬を煎じると、さっそくそれを十三郎にのませようとする。 「あ、ちょっとお待ちくださいまし。先生、それはわたしから飲ませてやりましょう」  と、玄庵の手から湯飲みをうけとった佐七は、珍石のほうをふりかえり、 「ああ、珍石さん。おまえさんのもできましたね。じゃ、それもこっちへいただきましょうか。いや、ありがとうございます」  と、にっこりわらった佐七は、辰と豆六をふりかえり、 「おい、辰、豆六、よく見ておけ、こっちの湯飲みが玄庵先生で、こっちの湯飲みが珍石さんだ。まちがえるな」 「へえ、へえ」  辰と豆六は妙な顔をしている。 「よし、わかったか。わかったら、この薬をお奉行所へもっていって、よく調べてもらうんだ。どっちかの薬に毒がはいっちゃいないかと」 「げっ、親分、な、なんですって!」  と、辰と豆六は肝をつぶしたが、とたんに、 「ちくしょう!」  さけぶとともにこぶしをあげて、ふたつの湯飲みをたたき落とそうとしたのは、なんと向井玄庵ではないか。  とたんに、佐七が玄庵の骨ばった腕をおさえていた。 「玄庵、御用だ!」  玄庵は骨をぬかれたように、へたへたとその場にへたばると、鬢《びん》の毛をふるわせて、それきり動かなくなった。  みんなあっけにとられたような顔をして、貧苦にやつれた玄庵の顔を見守っている。  獣咬瘡《じゅうこうそう》   ——琴路は十三郎に寄りそって  この話もここまでくるとおしまいである。  その、気抜けしたような玄庵を番屋へおくった佐七は、お玉が池へかえってくると、辰や豆六にむかって、あらためて絵解きである。 「玄庵はかねてから、宗丹の繁盛をねたんでいたんだ。おなじ医者でありながら、宗丹と玄庵、お月様とすっぽんくらいのちがいがある。これもじぶんの運命とあきらめようとしても、そこは人間、あきらめかねるときもあったろうよ。そこで胸のもやもやをいつも酒でごまかしていたんだが、まさか、宗丹を殺そうとまでは思っていなかったろう。それがあんな大それたことをやらかしたのも、やっぱり回り合わせだったんだな」  佐七は感慨ぶかくため息をつく。  辰はひざをのりだして、 「親分、宗丹のやつがきつねをつかって、まんまと駕籠《かご》ぬけをやったのは、やっぱりからだにできた斑点《ぶち》のためだったんですね」 「宗丹はそれを癩病《らいびょう》やと思いこみよったんだっしゃろな」 「そうだ。そこで、髪の抜けはじめたころから、いっさいひとに会わなかった。それをしっているのはお蓮と珍石だけだ。ことに琴路にはよけいな心配をさせぬため、ぜったいに顔をあわさぬようにしていたんだ」 「それで琴路がふたりのなかを疑った」 「情けがかえってあだになったちゅうわけだんな」 「そういうことだな。しかし、そうこうしているうちに、病勢はいよいよつのってくる。いつまでもおなじ家にいて顔をあわさぬというわけにもいかなくなった……」 「そこで姿をかくそうとしたが、ただ姿をかくしただけじゃ琴路が納得しめえというところから、ああいうくるしい芝居をうったんですね」 「つまり、こういう段取りだんな。宗丹は玄関わきによこづけになった駕籠に乗るとみせかけ、まんまと首尾よう駕籠ぬけさらしよった。そして、代わりにきつねの死体を入れといた……」 「そうだ、そうだ。しかし、きつねの死体を患者のところまで運んでいくわけにゃアいかねえから、珍石が金太をけしかけ、神楽坂の坂下で、いやがおうでも駕籠をとめなきゃならねえように仕組んでおいた。そして、駕籠の戸をあけてびっくりぎょうてん、はて、面妖《めんよう》な」 「お師匠さんがきつねになられたア、や、や、や、ややあ……てなもんやな」  辰と豆六のはなしはどうしても芝居がかりになってくる。 「あっはっは、まあ、そういうわけだろう」 「そこへよこから高瀬十三郎が、師匠のかたきととび出してきたので、話がややこしくなってきた」 「まあ、そういうこった。いっぽう、駕籠ぬけをした宗丹は、その日いちにち、屋敷のどこかにかくれていたが、夜になるのを待ってこっそり家を抜けだした。かくれ家へおもむいて、ひそかに養生しようというわけだ」 「そこを玄庵に見つかっちまった……」 「そや、そや、玄庵にしてみれば、かねてより憎し、ねたましとおもう商売がたきの宗丹が、きつねになったといううわさをきいて、こら、いったいどないなわけやろちゅうわけで、宗丹の住まいを見張っていよったんだすやろな」 「そうだ、豆六のいうとおりだ。だから、こっそり宗丹のあとをつけていくと、大曲がりの怪しい家へはいっていった。そこは宗丹が他人の名義でかりうけて、ひそかに養生しようと思っていた家だ」 「そこで玄庵いよいよおどろき怪しみよったが、そのときむらむらっとこみあげてきたんが、日ごろのねたみといまいましさ、にわかに生ずる殺意のきざし、とうとうだいそれたことをやってのけたうえ、死体を江戸川へ投げこみよった……と、これが事件の真相ちゅうわけだんな」 「まあ、そうだろうな。まったくはずみというものは恐ろしい。宗丹の家を抜けだすところを見さえしなきゃア、まさかこんな大それたまねはやらずにすんだろうがね」 「玄庵のやつ、宗丹を殺したばっかりか、その罪を十三郎におっかぶせようとしやアがった」 「あれはおおかた、あとから思いついたことだろう」 「そやそや、玄庵がまだあの自身番にいるところへ、十三郎がやってきよった。そこで、しめたッ、こいつにひとつ罪をきせたろちゅうわけで、こっそりあとをつけていきよった」 「そして、十三郎がふろへ出かけたそのあとで、食べもののなかへ毒をまぜておきゃアがった。つまり、十三郎が師匠のかたきを討って、自害したように見せかけようとしやアがったんだ。ところがどっこい、その十三郎が助かりそうなところから、解毒剤といつわって、またぞろ毒を盛ろうとしたが、天網カイカイ、とうとう親分に見破られやアがった。ざまアみろというところさあね」 「あっはっは、いやな、おれは十三郎が自害でないとわかると、すぐ玄庵と珍石を思いだしたんだ。だが、果たしてどちらが下手人か、まあ、たいていのことはわかっていたが、念のためにああいう芝居を思いついたんだが、玄庵がまんまとそのわなにおちたのは、まあ、おれの運が強かったんだろう」  佐七は肩の荷をおろしたようにわらっていた。  ところで、さいごにつけ加えておくが、宗丹の病気は癩《らい》ではなかった。  佐七からことの真相をきかされ、また、お蓮や珍石から、いままでの苦労話を打ち明けられた娘の琴路は、父が癩であったときいて、いちずに嘆き悲しんだが、そのとき、毒の麻酔よりさめかけていた十三郎が、突如、妙なことを口走ったのである。 「いいや、宗丹どのは癩ではなかった。あれは獣咬瘡《じゅうこうそう》といって、獣類などにかみつかれたさい、その毒がまわって異常をきたすが、べつに心配な病気ではない。わたしは宗丹どのの死体をあらため、たしかにそれをたしかめた。琴路どのとやら、安心なされたがよい」  十三郎の力強い一言が、一挙にして琴路のうれいを吹きとばしたのである。  いかにも秋の夜長の怪談にでも出て来そうな妙な話だったが、さて、その後日談である。 「いや、あのときはこちとらも驚きましたが、琴路のあのおどろきやら、そしてまあ、あのうれしそうな顔ったら……」 「そらむりもおまへんがな。ひょっとすると、じぶんも癩の筋やないかと心配してたところやさかい、十三郎の一言こそ、天の声ともきこえたんやろ」 「それにしても、げんきんな女じゃねえか。さっきまで親のかたきと憎んでいやアがった琴路めが、きゅうに十三郎めに寄りそやアがってよ。あなた、しっかりしてくださいなんて、背中なんかさすっていやアがった。ちょっ、いまいましい。おい、豆六、これからはガクがないと、女にもほれられねえとよ」  辰と豆六、しきりに世の中をはかなんだという。     くらげ大尽  お大尽嫁探し   ——丁字屋の花扇《かせん》さんは泣きの涙で 「親分、くらげ大尽をご存じですかえ」  と、こう切りだしたのは、きんちゃくの辰の伯母《おば》さんで、お源という女である。  お源は本所緑町に住んでいて、両国のこじき芝居で下座の三味線をひいている女だが、稼業柄《かぎょうがら》いろんな聞きこみをしては、佐七のところへ持ちこんでくる。  さすがは辰の伯母さんだけあって、お源の持ちこむ材料にはわりにむだ玉が少なく、ときおりそれから、とんでもない大事件をつりあげることがあるので、佐七もこの女の聞きこみには、かなり信頼しているのである。 「くらげ大尽なら、おれも会ったことがあるが……」 「おや、いつ、どこで……?」 「なに、会ったといったところで、懇意なわけじゃねえ。道で会って、あれがくらげ大尽だと、ひとに教えられたことがあるだけよ。辰、豆六、あれはいつのことだっけねえ」  佐七に声をかけられて、つぎの間で豆六あいてにヘボ将棋をしていた辰がふりかえった。 「親分、あれはお十夜のひも解きの晩でしたから、十月六日、半月ばかりまえのことでさあ」 「そうそう、そうだっけ。お源さん」  と、佐七はお源のほうへむきなおり、 「その日、おいらは用事があって、辰や豆六といっしょに吉原《よしわら》へ出向いていったのだが、知り合いの引き手茶屋で一服していると……」  おもてを通りかかったのが、どこかの茶屋の男衆におんぶされた男である。  うしろからべつの男衆が、まるで花魁道中《おいらんどうちゅう》みたいに、長柄の傘《かさ》をさしかけて、大兵肥満の幇間《ほうかん》がひとり、芸者が四、五人、茶屋のおかみまでつきそって、 「お大尽さま、お大尽さま」  と、はやし立てながらいくところを見ると、どこかの物持ちと思われるが、服装や持ち物に贅をつくしたわりあいにやぼったく、いかにも田舎大尽といったかっこう。年ごろは三十五、六というところか。  頭をくりくり坊主にして、どんぐり眼にへしゃげた鼻、あつぼったいくちびる、そのくちびるからいまにもよだれがたれそうなほど、にたりにたりと、笑みくずれているのが気味悪い。  さらにもうひとつ奇怪なのは、男衆に負われたそのかっこうで、ぐんにゃりと背中に吸いつくように負われた全身が、男衆の歩くたびにぐにゃぐにゃ揺れて、白足袋をはいた足なども、魚のひれのように小さく頼りない。 「なんだい、ありゃ……」  にぎやかに茶屋のまえを通りすぎる一行のあと見送ってきんちゃくの辰、おもわず大声でどなるのを、茶屋のおかみがあわててとめて、 「あれ、あなた、そんな大きな声を出してはきこえますよ」 「きこえたって構うものか、おかみさん、あのこんにゃくの化け物みてえな男は何者だえ」  そういう声がきこえたのか、男衆に負われた男が坊主頭をこちらにねじむけ、ギロリと辰をにらんだが、いや、その目付きのすごいこと。  なにかいおうとしたらしかったが、そばについている脂切った幇間があわててなにかささやくと、そのまま顔をそむけていきすぎた。 「辰、むやみなことをいうものじゃねえ」  と、佐七は辰をたしなめておいて、 「しかし、おかみさん、あれゃほんとうにどういうおひとですえ」  と、おかみに聞いた。 「はい、あのおかたは柊屋《ひいらぎや》さんのお客さんで、大和次郎三郎《やまとじろさぶろう》さまという、沼津のほうからいらっした大金持ちだそうで」 「なるほど。しかし、ああして男衆に負われているのはどういうわけだ。体でも悪いのか」 「はい、あの、それが……」  と、おかみは声をひそめて、 「ほかのお店のお客のことをとやかくいうのもなんですが、あのひとは骨無しとやら」 「なんや、骨無しやてえ?」  と、こんどは豆六がわめくのを、 「あれ、またそんな大きな声を……柊屋さんにきこえては悪うございます。まんざら骨がないわけではございますまいが、つまりは柔らかいのでございましょう。いざりのように足が立たず、体などもぐにゃぐにゃして……それで、廓《くるわ》のものはかげではこっそり、くらげ大尽と呼んでいるんでございます」 「ふうむ、それでおかみさん、そんなかたわ者のぶんざいで、やっぱり女郎買いをするのか」  と、きんちゃくの辰、いかにもいまいましそうである。 「それはあなた、殿御でございますもの」 「そして、なじみの花魁《おいらん》は……?」 「丁字屋の花扇さんでございます」  と聞いて、辰は目をいからせた。 「なんだ、丁字屋の花扇だと? 花扇といやアまだ十九、美しいことにかけても並ぶものはねえが、生娘のようにうぶで、おとなしい花魁だというじゃねえか」 「はい、それですから、花魁もたいそうお大尽さまを怖がりまして……それも無理はございませんので、なにしろああいう体ゆえ、花魁とふたりでおひけになりましても、ふつうのお客さまのようなわけにはいかず、いろいろと気味の悪いような、いやらしいようなことがございますそうで」  と、おかみはまゆをくもらせた。 「そりゃそうだろう。いかに売り物買い物たアいえ、それじゃ花魁がかわいそうだ。とはいえ、かたわ者だから女郎買いをしちゃいけねえというわけにもいくめえしなあ」 「ほんにさようで、地獄のさたも金次第というこの里のことですから。それに、お大尽さまが沼津から江戸へ出てこられたのも、嫁さがしのためだそうで……それが花扇さんにぞっこんほれて、なにがなんでも根引きして、沼津へつれてかえるというので、花扇さんはちかごろ泣きの涙だそうで」 「そらまた、えらいもんに見込まれたもんやなあ」  と、豆六も大いに同情したが、さりとて、こればかりはどうするわけにもいかなかった……。 「というわけで、お源さん、くらげ大尽にいちど会ったことはあるんだが、そのお大尽がどうかしたかえ」  と、佐七に聞きなおられて、 「親分さん、そのお大尽について、ここにもひとつ話がございますんで」  と、お源はやおらひざをすすめた。  お大尽ふたり妻   ——丁字屋の花扇と山崎屋《やまざきや》のお小夜《さよ》  両国の米沢町《よねざわちょう》に、山崎屋という古着屋がある。  あるじを鶴右衛門《つるえもん》、女房をお国といって、かいわいでも評判の好人物ぞろい、なかにうまれた娘のお小夜は、番茶も出花のことし十八、江戸でも評判の小町娘である。  いや、器量がよいのみならず、気だてがやさしく親孝行で、ひとに親切だというところから、お小夜をしるもの、だれひとりとしてほめぬものはない。 「わたしもちょくちょく古着を買いにまいりますので、よく存じておりますが、それはそれはよい娘さんでございます。ところが、親分、そのお小夜さんというのがまた、くらげ大尽の大和次郎三郎に見込まれたのでございます」  お源は佐七の顔を見ながら息をのんだ。 「見込まれただって、つまり、くらげ大尽がお小夜にほれたというわけか」 「はい。そして、ぜひ嫁にほしいというわけで」  佐七はちょっとまゆをひそめて 「しかし、お源さん、その次郎三郎なら、丁字屋の花扇を身請けして、女房にするといううわさだぜ」 「はい、花扇さんはきのう吉原を引きまして、次郎三郎のところへ引きとられました。ゆうべたしか、祝言の杯があったはずで……」 「それじゃ、おかしいじゃないか、そのうえ、まだお小夜を嫁にほしいなどとは……」 「ところが、親分、その次郎三郎というのは、いつもおかみさんをふたり持っているんだそうでございます」 「なんだ、女房をふたり持っている?」  佐七はおもわず目をみはったが、その声をきいて辰と豆六、ヘボ将棋の駒《こま》を投げだし、となりの部屋からのこのこ出てきた。 「伯母《おば》さん、なんだかおもしろそうな話じゃないか。おまえくらげ大尽を知っているのか」  と、辰がまずひざを乗りだした。 「とんでもない。だれがあんな化け物を知るもんかね。しかし、くらげ大尽のお供をして、沼津からいっしょに出てきた捨松という男が、ちょくちょく両国へ遊びにくるので、わたしゃその男にきいたんだがね」  それによるとこうである。  大和家というのは、沼津はいうにおよばず、近在きっての物持ちで、大和様にはおよびもないが、せめてなりたや領主様、と、歌にうたわれるくらい、その富は御領主様さえしのぐといわれるほどの豪家である。  次郎三郎はそういう豪家のひとり息子にうまれながら、うまれついてのくらげ男、座ることさえむずかしく、いつも重ね布団によっかかり、首もぐらぐらすわらぬくらい、つまり骨なしのかたわである。  そういう因果な身にうまれながら、さらに因果なことには、この次郎三郎、底なしの色好みであった。  年ごろになると妻を迎えたが、それがひとりではなく、ほとんど同時にふたりの妻をめとった。  ところが、移り気なかれは、すぐその妻たちに飽いたらしく、かれらを追い出すと、またべつの妻を迎えたが、そのときもほとんど同時に、ふたりの妻をめとった。  こうして、かれはなんどもなんども妻をめとったが、いつも、ほとんど同時にふたりの妻を迎え、追い出すときも、いつもふたりいっしょに出してしまうのである。  捨松という奉公人が、お源に語ったところによると、沼津にある大和の家には、まんなかに母屋があって、そこにあるじの次郎三郎と、次郎三郎の唯一の肉親にあたるお篠《しの》という伯母《おば》が住んでおり、そこから西と東に渡り廊下がでていて、そのさきにおなじような造りの家が二軒あり、ふたりの妻はそれらの家に、べつべつに住んでいるのだそうな。  そして、あるじの次郎三郎は、今夜西の妻のところへいったかと思うと、明晩は東の妻のもとへ通うというふうに、ひと晩交替に、ふたりの妻のところでねるというのである。 「ほほう、それはまた……」  と、佐七は忌まわしそうにまゆをひそめて、 「色好みにもいろいろあるが、そいつはまたかわった男もあるもんだね」 「伯母さん、しかし、ふたりの女房というが、ひとりのほうはめかけじゃねえのか」 「けっきょくはそういうことになるんだろうが、それじゃ不公平になると思うのか、次郎三郎はいつも両方を奥様と呼ばせ、おなじように扱っているそうだよ」  佐七は辰や豆六と顔を見合せ、 「それゃ、御領主さまさえしのぐほどの物持ちなら、ふたりや三人の女をかこっておくのにふしぎはねえかもしれねが、なにもそう追い出すときまで、ふたりいっしょでなくてもよさそうなもんじゃねえか」  お源もうなずき、 「ほんとに、親分、わたしもそう思ったものだから、捨松という男に、そこんところを念をおしてたずねてみました。ところが、捨さんのいうのに、いままで五へんおかみさんを変えたが、いつもふたりずついっしょにもらい、追い出すときもきまってふたりいっしょだった。だから、ひとりがいやになると、もうひとりのほうもいやになり、なにもかも新規まきなおしにしたくなるのだろうと、そう捨さんは笑っていました」 「すると、お源さん、なにかいな」  と、豆六もひざを乗りだして、 「いままでふたりずつおかみさんを持って、それを五へん変えたというと、都合十人の女をおもちゃにしてきたわけかいな」 「豆六さん、そういうことになるねえ。しかも、それがみんなべっぴんだったそうだよ」 「畜生、かたわ者のぶんざいで生意気な野郎だ。それにしても、女も女じゃねえか。なにもよりによって、あんな薄っ気味悪いくらげ男のところへ嫁にいかなくてもいいじゃねえか」 「そういったってしがたがないよ。辰、金の威光にゃかなわないからね。でも、ちかごろじゃ、さすがに沼津近辺では気味悪がって、だれもお嫁になりてがなくなったんだってさ。それで、江戸まで嫁さがしにきたわけだが、白羽の矢を立てられたものこそとんだ災難さね」 「その白羽の矢が、丁字屋の花扇と、山崎屋のお小夜に立ったわけだね」 「そうですよ、親分」 「しかし、伯母さん、山崎屋のほうは大丈夫だろう。こっちはかたぎの娘だから、いやだといえばそれですむこと」 「ところが、そうはいかないんだよ、辰」  と、お源は顔色をくもらせて、 「ねえ、親分、わからないものはひとのふところだと申しますが、ほんとにそうですねえ。山崎屋さんも丁稚《でっち》小僧の三、四人も使って手堅くやっておりますので、お内緒もさぞ裕福だろうとおもっていたところが、それが大きなまちがいで、昨年、筋のわるい古着をつかまされ、たびたびお奉行所へ呼び出され、そのときずいぶん金を使ったそうですが、これがけちのつきはじめとやら、それからというものは、することなすこと、いすかの嘴《はし》とくいちがい、ちかごろじゃ借財がつもりつもって内緒は火の車、そこへくらげ大尽が、お小夜を嫁にくれるなら千両出そうと切り出したので……」 「山崎屋ではとびついたのか」 「いえ、両親は反対しました。なんぼなんでも、娘を金で売るようなまねはできぬというんです。しかし、さしあたってまとまった金が手に入らぬと、一家首でもくくらねばならぬほどのありさまだそうで。それで、お小夜ちゃんが決心して、じぶんから嫁にいくといい出して……親分、じつはこんやがお小夜ちゃんのお輿入《こしい》れなんでございますよ」 「畜生」  辰はくやしそうに歯ぎしりして、 「ゆうべ花扇と祝言して、今夜お小夜と婚礼するのか」 「しかし、お源さん」  と、佐七もひざを乗りだして、 「お輿入れをするって、くらげ大尽はいったいどこに宿をとっているんだ」 「親分はご存じじゃありませんか。吉原に柊屋《ひいらぎや》という引き手茶屋がございます。その柊屋の寮というのが、本所の竪川筋《たてかわすじ》にあるんです。そこをひと月ほどまえから借り切って、くらげ大尽のほかに伯母のお篠《しの》さん、ほかに奉公人男女あわせて十人ばかり、くらげ大尽の嫁さがしのために、沼津からうつってきているんです」 「ほほう。すると、くらげ大尽は、柊屋と親戚筋《しんせきすじ》にでもなるのかえ」 「いえ、そうではございません。これには仲立ちをするやつがあるんです。親分がくらげ大尽をごらんになったとき、坊主頭の大入道の太鼓持ちがひとりついていたでしょう。あいつは銀蝶《ぎんちょう》といって、ひところ江戸を食いつめて、旅回りのはなし家かなんかしていたんですが、それが沼津でくらげ大尽に取り入ったんです。くらげ大尽が江戸へ嫁探しにこようなどと思いついたのも、みんなあいつがけしかけたからなんで。柊屋の寮をせわしたのも銀蝶なんです。あいつはずいぶん甘いしるをすったろうという評判です」 「ふうむ、悪いやつもあるもんだな。ところで、お源さん、おまえこの一件について、なにか起こりそうだというのかえ。これだけじゃ、いかに女たちがかわいそうだといったところで、手のくだしようもねえが……」 「親分、それなんですよ。わたしとしたことが、かんじんの話があとになって……」  と、お源の話によるとこうである。  山崎屋にはお小夜のうえに、ひとりの男の子があった。  藤太郎《とうたろう》といってことし二十三。お小夜ににて、絵にかいたようないい男だが、十九の年からぐれだして、一昨年家をとび出したきり、両親のもとへも寄りつかなかったが、ちかごろどこかで、お小夜とくらげ大尽のうわさをきいたとみえて、ひどく憤慨して、くらげ大尽を殺してやると、付けねらっているという評判がある。 「それですから、親分、こんやの御祝言には、なにかひと騒動おこるのではないかと思いまして……」  お源がきたのはそのことだった。  お大尽|新枕《にいまくら》   ——湿った粘膜が体中をはいまわり  江戸時代の暦で十月といえば、現今では十一月。だから、歳時記でも十月は冬の部に入っている。  その十月も二十日を過ぎると、夜などめっぽう冷えてくる。  ましてやここは本所の竪川沿《たてかわぞ》い。  柊屋の寮はけっこうな建築にはちがいないが、それでも、雨戸や障子のすきまから流れこむ川の冷気が、さむざむと、長じゅばんいちまいの膚にしみとおって、お小夜は身もこころも凍るおもいだ。  時刻は夜の五つ半(九時)、どこかで千鳥が鳴いている。この夜更けにどこへいくのか、竪川をこいでいく櫓《ろ》の音が寂しい。  その櫓の音が遠くかすかに消えていくと、あとはしいんと、魂も凍るような静けさである。  お小夜はぶるっと肩をふるわせると、思い出したようにあたりを見まわした。  そこは柊屋《ひいらぎや》の寮のなかでも、とくにけっこうにしつらえられた離れのひと間。  三枚がさねの敷き布団に緞子《どんす》の掛け布団、まくらもとには六枚おりの金びょうぶがひきまわしてあって、絹張りの行灯《あんどん》の灯のなまめかしさも、新婚初夜にふさわしく……。  しかし、お小夜のいま待っているそのひとは……? それをおもうと、お小夜の心はいよいよ冷えまさっていくのである。  あいてをかたわ者だからといって、バカにしてはならぬ。祝言の杯をすませたからはりっぱに夫、体が不自由であればあるほど、妻としていたわってあげねばならぬ……。  と、そうはおもいながらも、さっきの祝言の席における次郎三郎のすがたをおもいだすと、お小夜はゾーッと総毛立つのである。  お小夜はきょうまで、次郎三郎の姿を見たことがなかった。  かたわ者だとは聞いていた。しかし、これほどひどいと思わなかったのは、橋渡しをした太鼓持ちの銀蝶のなこうど口にだまされていたのである。  祝言の席で、はじめて夫となるひとを見て、お小夜はわっと泣き出したかった。  しかし、お小夜は泣かなかった。  そばに両親がひかえていたからである。じぶんが泣けば、両親の嘆きはどうのようであろうと思うと、けなげなお小夜は、泣くにも泣けなかったのだ。  次郎三郎は黒紋付きに麻がみしもをきて、座布団のうえに座っていた。  いいや、座っていたのではない。うしろに積んだ夜具にもたれて、まるでくらげのように平べったく、頭も胴にめりこみそうなかっこうであった。  それでいて、その男は、じぶんの不具をいささかも恥じる色がなかった。  ぐにゃりぐにゃりと坊主頭をふりながら、みにくい顔に不敵のせせら笑いをうかべて、にたりにたりとなめまわすように、花嫁のすがたを見守っている。  そのいやらしさ、気味悪さ……。  しかし、それもがまんしよう。かたわ者のひがみということもある。どんなに心のねじけたひとでも、こちらのまごころが通じぬということはあるまい。  それより、お小夜にはどうしてもがまんのならぬことがある。おなじ男が、ゆうべもここで、べつの女と祝言の杯をかわしたのだ。  お小夜はじっと座っている。  三枚がさねの敷き布団に目を落とす。  ひょっとすると、この座敷の、この夜具のうえで、次郎三郎は吉原からひかされてきた花魁《おいらん》と、ゆうべ、夫婦のかたらいをしたのではあるまいか……。  そう思うと、そのけっこうな敷き布団も、お小夜にとっては針のむしろも同様だった。  お小夜まはまたゾーッと肩をふるわせたが、そのとき渡り廊下をわたって、こちらへ近付いてくるひとの足音。  お小夜はおびえた目の色で、敷き布団のうえでいずまいをなおした。足音のぬしは二、三人、障子の外でとまったかと思うと、 「ふむ、ここでよい、ここでおろしてくれ、わしひとりではいっていく。花嫁がはずかしがるといけんでな」  そういう声はくらげ大尽。 「えっへっへ、だんな、お楽しみでございますね。ゆうべといい、今夜といい、両手に花とはまったくこのことでさあ」  へらへらと、おだてあげるような笑い声は、太鼓持ちの銀蝶だろう。 「あっはっは、銀蝶、これもみんなおまえのおかげだ。いずれお礼はたんまりするぜ」 「へえへえ、なにぶんよろしくお願いいたします。それでは、だんな、花嫁御寮がお待ちかねでございましょうから」 「ふむ、それじゃむこうへいったら伯母《おば》うえによろしくいってくれ」 「へえへえ、それから花扇さんに、やきもち焼かぬようにと申しつたえましょう。明晩はあっちのほうへおいでになるんでしょう」 「うっふっふ、まあ、そうじゃな。では……」  銀蝶と男衆の足音が、渡り廊下のむこうへ消えていったかと思うと、やがて障子が外からひらいて、敷居のうえをのたくるようにはいってきたのは、寝間着すたがのくらげ大尽、こんやの花婿次郎三郎である。  次郎三郎は畳のうえにへたったまま、うしろ手に障子をしめると、お小夜のほうを見てにったり笑った。 「あっはっは、お小夜や、待ちどおしかったろう。いま、そこへいくでな」  お小夜ははじめて、くらげ男がじぶんで動くところを見た。  それはちょうどいざりのように、あぐらをかいたまま、両手をうしろについて前進するのだがなにしろ骨無しだから、全身がぐにゃぐにゃぶるぶる……なんともいえぬ気味悪さである。  しかも、それでいて、かなりのスピードを持っている。お小夜はなにかいおうとしたが、舌の根がこわばってことばも出ない。  くらげ男はやがて、よっこらしょと、三枚かさねの夜具のうえにはいのぼると、ぴったりお小夜によりそって、 「あっはっは、お小夜や、おまえなにをそのようにふるえているのじゃ。だんなさまがきたのに、そんなにふるえるやつがあるもんか。さ、もそっとこちらへお寄り」  くらげ男は息をはずませ、お小夜の体を抱きよせると、顔のうえにのしかかってくる。 「あれ、だんなさま……」  お小夜は男のくちびるをさけようとして、首を左右にふりながら、 「あかりを消して……行灯《あんどん》の灯を消して……」 「あっはっは、そうか、そうか、恥ずかしいのか。それでは、おまえ灯をお消し」 「はい……」  ふるえながら、お小夜が灯を消すのを待ちかねて、くらげ男がまた抱きついてくる。 「あれ、あなた、待って、待って……」 「なんじゃ、どうするのじゃ、おまえ、なにもそんなにじらすことはないじゃないか」  くらがりのなかでくらげ男は、はげしく息をあえがせながら、軟体動物のような体で、ぴたりとお小夜の膚にからみついてくる。燃えに燃えた男のからだが、長じゅばんのうえからおぞましく、お小夜の膚を圧迫して、お小夜はおもわずピクリとふるえた。  お小夜も覚悟はしているのだが、それでもその瞬間を少しでもさきへのばしたいのだ。 「あなた、ちょっと待って。あたし、あたし……」  しかし、くらげ男にはもう待てしばしはなかった。全身の重みをかけてのしかかってきたから、お小夜はおもわず仰向けにひっくりかえった。  えたりやおうとそのうえから乗りかかってきたくらげ男は、じぶんでじぶんを支える力がないから、その体は見かけよりはるかに重い。しかも、くらげ男は骨なしでこそあれ、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》にくらしているから、全身が脂ぎっている。  お小夜は息がつまりそうだった。 「お小夜、お小夜……」  くらげ男はうわごとのようにつぶやきながら、ぐんにゃりとした左手でお小夜の腰を抱き、これまたぐんにゃりとした右手で、情け容赦もあらばこそ、お小夜の長じゅばんのまえを胸からすそまで大きく左右にかっさばいた。 「あれ、あなた……」  お小夜は抵抗しようとするのだが、骨なしのくらげ男が千鈞《せんきん》の重みとなってのしかかっているのだから、どうするすべもない。  まもなくお小夜は裸同様にされてしまうと、あのいやらしいくらげ男の膚と膚とがぴったり密着して、男はお小夜の顔のうえにのしかかってきた。  男は思うぞんぶんお小夜の口を吸いながら、ぐにゃぐにゃした手でお小夜のからだをなでまわしていたが、やがて芋虫みたいに身をくねらせて、しだいに体をしたのほうへずらせていくと、湿った粘膜がピタピタ音を立てながら、お小夜の素膚のうえをはいまわる。  お小夜は身をよじらせてそれを拒もうとするのだが、あのぐにゃぐにゃとした両手は、まるで吸盤でももっているようにお小夜の膚に吸いついて、彼女の自由を許さない。  くらげ男は獣のような息を吐きながら、湿った粘膜はしだいに下半身へうつっていく。  お小夜は恥ずかしさとあさましさで、泣くにも泣けない思いをこらえながら、しかし、あいてのなすがままに、身をまかせているよりほかにみちはない。  あいてはかりにも夫であり、しかも、じぶんのからだには大枚の金がかかっている。  男の湿った粘膜は、念入りにそこらじゅうをはいまわっていたが、そうされるとお小夜ももう年ごろ、あさましい、おぞましいと思いながらも、息が乱れ、はずんでくるのをどうしようもなかった。  男はそこに好もしい女としての反応があらわれはじめたのをたしかめると、喜悦の声をあげながら、また芋虫のようにのろのろと、お小夜の体をはいのぼってきた。  しかし、これがくらげ男にできる限度であったらしい。  かれはお小夜のうえから降りると、ドタリと仰向けに体をたおし、いまお小夜にしてやったとおりのことを、じぶんにしてくれと要求するのである。  ふしぎなことには、いや、これはふしぎでもなんでもなく、当然のことだろうが、全身骨なしのぐにゃぐにゃ男でいながら、その男はりっぱというより、そら恐ろしいほど男であることを示している。  くらがりのなかで、くらげ男は、お小夜の手をとって、ほこらしげにそれをたしかめさせると、 「さ、さ、お小夜、わしのいうとおりしておくれ。そして、そのあとでうえからしっかりわしを抱いて、夫婦《みょうと》のかためをしておくれ。さ、さ、お小夜、はよう、はよう」  これがくらげ男の本音であった。  かれの男はそら恐ろしいほど燃えに燃えているのだが、悲しいかな、かれみずからそれを駆使することができないのだ。  しかし、いかに男の粘膜の刺激で反応があらわれかけているとはいえ、まだ生娘のお小夜に、どうしてそんな大胆なまねができよう。 「だんなさま、そ、そればっかりは堪忍して……」  お小夜は羞恥《しゅうち》とおぞましさと、それからはげしい自己|嫌悪《けんお》で、わっとその場に泣き伏したい気持ちだった。 「な、な、なんだ。ま、まだ、そ、そんなことをいっているのか。よしよし、わしのかわいがりかたが足りなんだとみえる。そ、それではもいちどしてあげる」  くらげ男はあらしのような息を吐きながら、せわしなく身を起こすと、こんどはいきなりお小夜のすそをわって、そこへ顔を埋めようとする。  お小夜の羞恥心と自己嫌悪は、ここにおいて限度をこえた。 「あなた、あなた、堪忍して。あたし、もう、あたし、もういやよ」  お小夜は上半身ではね起きると、男のからだをつきはなしたが、おもわず力があまったのか、くらげ男は三枚がさねの寝床からころげ落ちると、金びょうぶに背中をぶっつけたらしく、どしんと大きな音がした。 「お小夜、な、なにをするのじゃ」 「あら、あなた、すみません」  ここまで手荒なまねをする気のなかったお小夜は、さすがにすまないと思いながら、くらがりのなかの手さぐりで男の手をとったときである。 「うわっ!」  だしぬけに男がひと声、すさまじい悲鳴をあげたかと思うと、がっくりとお小夜のほうへのめってきて、ひくひくとからだ全体が波のように痙攣《けいれん》している。  お大尽非業の最期   ——いまの男は藤太郎《とうたろう》やおまへんか 「ハ、ハックション、ちっ、今夜はまたやけに冷えやアがる。親分、バカバカしいから、そろそろ引きあげようじゃアありませんか」 「そやそや、親分、もう四つ(十時)だっせ。お床入りもすんだじぶんや。泣いてもわろてももうあかん。お小夜はもとの白地にかえらしまへん。あほらしいさかいにかえりまほ」 「まあ、そういわずに、もう少しようすを見ていようよ」  そこは竪川《たてかわ》ぞいの、柊屋《ひいらぎや》の寮の塀外《へいそと》である。  さっきからひとめを避けて、いきつもどりつしている三人づれ。これをだれかと、いまさら説明するまでもあるまい。  お源の注進をきいた佐七が、なんとなく不安な胸騒ぎをおぼえて、辰と豆六をひきつれて、それとなく、柊屋の寮を見張っているのである。  空には月はなかったが、星が凍りつくようにまたたいている。  入江町の鐘がゴーンと鳴り出した。 「親分、ほら四つ(十時)ですぜ。ほんとにもう、いいかげんにかえろうじゃありませんか」 「そうよなあ、なにごとも起こらずにすめば、それにこしたことは……あっ、辰、豆六」 「お、親分、ど、どうしたんで……」 「しっ、黙って……この塀にぴったり体をよせていろ」  辰と豆六は、なにがなにやらわけがわからぬなりに、佐七にならってぴったりと柊屋の黒板塀に背をよせたが、そのときである。  塀のなかから突き出している見越しの松が大きくゆれて、しのび返しのうえにぬっと現れたのは、ほおかむりをした男の顔である。  男はしのび返しのうえから、外のようすをうかがっていたが、やがて松のこずえにかきのぼると、ぶらりとそれにぶらさがって、ぱっと下へとびおりると地にはった。  そのとたん、ばらばらととび出したのが辰と豆六。 「御用だ、神妙にしろ」  折り重なって捕らえようとする瞬間、 「なにを、しゃらくせえ」  下からぱっと投げたのがきてんの目つぶし、砂つぶてである。  それがまんまと図に当たって、 「わっ、ち、畜生、ぺっ、ぺっ!」  辰と豆六がひるむすきに、男はすばやく身をおこすと、ばらばらと道を横切って、 「くせ者、待て!」  佐七がとび出したときには、どぶんと竪川のなかへとび込んでいた。 「しまった!」  佐七は川ぶちに足をかけ、きっと水面をにらんでいる。しかし、くせ者は水にもぐったきり浮かんでこない。  おそらく、水中ふかくもぐったまま泳いでいるのであろう。  よほど水練の達者なやつにちがいなく、星明りとはいえ、そう遠くまで目はとどかぬから、まんまとくせ者に逃げられてしまった。 「ちっ、すばしっこいやつだ」  佐七が舌打ちしながらもどってくると、辰と豆六は目をこすりながらまごまごしている。 「辰、豆六、どうした」 「親分、すみません。まんまと目つぶしをくらいました。そして、くせ者は……」 「竪川へとびこんで逃げやアがった。しかし、だいたいあたりはついている。それより、目のほうはどうだ」 「へえ、どうやら砂がとれました。親分、いまのはやくざのようでしたね」 「ひょっとすると、お小夜の兄の藤太郎やおまへんやろか」 「おれもそうにらんでいるんだが、藤太郎がしのびこんだとすると……」  三人はふうっと顔を見合わせたが、 「とにかくいってみよう」  いま藤太郎がとび出したところから少しいって、角をまがると裏木戸がある。  みると、木戸が細目にあいていた。 「おや、ここがあいているのに、あいつどうして、あんなところからとび出しやがったのか」  辰は木戸を押してみたが、なにかつかえているとみえて大きくあかない。  辰はすきまからなかをのぞいて、 「あっ、親分、木戸のむこうにだれか倒れていますぜ」 「なに、ひとが倒れている……?」  佐七もすきまからのぞいてみて、 「おお、辰、あれゃ女だぜ。長じゅばんいちまいらしい。むりにも木戸をおしあけてみろ」 「おっと、がってんだ。豆六、肩をかせ」  ふたりが肩で押すと、やっと木戸はひとひとり通れるくらいにすきができた。  佐七はすばやくなかへすべり込むと、女のからだを抱きおこす。  辰と豆六も木戸をひらいて入ってきた。 「親分、——死んでいるんですかえ」 「いや、そうじゃねえらしい。気をうしなっているようだが……辰、豆六、どこかに水はねえか」 「へえ」  辰はあたりを見まわして、 「おお、さいわいむこうの築山のかげに、筧《かけい》の遣《や》り水があらあ。豆六、あれを手ぬぐいにふくませてこい」 「おっと、がてんや」  辰は女の顔を見なおして、 「親分、これゃお小夜ですね」 「ふむ、そうらしい」 「しかし、どうしてこんやの花嫁が、こんなところに倒れているんでしょう」 「辰、この女の両手を見ろ」 「へえ」  辰は星明りで女の両手のてのひらをみて、 「あっ、親分、こ、これゃ、血……」 「そうよ。どっぷり血で染まっている。これゃてっきり、なにかあったにちがいねえぜ」  そこへ豆六が、手ぬぐいに水をふくませてきたので、それをしぼって、口のなかへそそぎこむと、女はやっと正気にもどって、放心したようにしばらくぼんやり三人の顔を見まわしていたが、きゅうになにか思い出したらしく、 「ああ、あなた……ひと……ひと殺し……」  と、ひとこと叫ぶと、身をふるわせて泣き出した。  佐七はぎょっと辰や豆六と顔見合わせて、 「もし、お小夜さん、おまえさんはお小夜さんだろう。いったい、どうしたというんだ。だれが殺されたというんだえ」 「はい、あの、だんなさまが……」 「だんな……? だんなといやアくらげ大尽……いや、次郎三郎さんですかえ」 「はい、あの……そのだんなが殺されて……」  お小夜がふるえながら語るところによるとこうである。  お大尽夢まぼろし   ——おれが死んだなど冗談じゃねえ  くらがりのなかで次郎三郎ががっくりまえへのめってきたので、お小夜はおどろいて、 「あなた、あなた、どうかなさいましたか」  と声をかけたが返事もなく、やがて痙攣《けいれん》もおさまって、男はぐったり動かなくなった。 「しっかりしてくださいまし。だんなさま、どこかおけがでもなさいましたか」  打ちどころでも悪かったのではあるまいかと、お小夜はそばへにじりよって、 「もし、だんなさま、もし……」  と、背中へ手をやったとたん、なにやらぬらりとしたものが指にさわった。  おや、と、首をかしげてなでまわすと、ぬらぬらしたものがしだいにひろがってくる。  お小夜がはっと両手を鼻のさきに持ってくると、ぷうんと鼻をつく血のにおい……。 「あれ……」  お小夜はのけぞるばかりに驚いたが、すぐ気がついて、夜具からすべりおりると、ふるえる手で火打ち箱をさぐりあて、カチカチと火打ち石を鳴らすと、行灯《あんどん》に灯をいれたが、そのとたん、 「あれ……」  お小夜ののどからまたしても、たまげるような悲鳴がほとばしり出る。  くらげ大尽の次郎三郎は、びょうぶを背にして、ぐんにゃりまえにのめっていたが、その背中は血潮でぐっしょりぬれているのだ。  くせ者はびょうぶのうしろにかくれていたのにちがいない。  そして、くらげ大尽がびょうぶへ倒れかかったせつな、びょうぶごしにえぐったのであろう。  ひとところびょうぶがさけて、金泥《きんでい》のうえに血のしぶきが、ぼたんのように散っている。  お小夜はなにか叫ぼうとしたが、その声は口のなかで凍りついた。  びょうぶのむこうで、がさりと物音がしたからである。  ああ、くせ者がまだそこにかくれているのだ。  お小夜はまるで金縛りにでもなったように、しばらく身動きもできなかったが、やがて夢中で立ちあがった。そして、障子の外へとびだすと、はだしのまま庭へとびおりた。  柊屋《ひいらぎや》の寮はかなり広い。  それをどう歩いたのか、やっと裏木戸までたどりついて、閂《かんぬき》をぬき、かけがねをはずして、外へとび出そうとしたせつな、お小夜はなにかにつまずいて、 「倒れたひょうしに、気をうしなったのでございます」  と、涙ながらに物語るお小夜の話をきいて、三人はまた顔を見あわせた。 「そして、お小夜さん、それはいつごろのことだえ」 「はい、あの、五つ半(九時)を過ぎてまもないころでございました」 「いまはもう四つ(十時)だぜ。そうすると、おまえさんは、半刻《はんとき》(一時間)ちかくもここで気をうしなっていたんだな」 「まあ、あたし、なにも存じませんで……」  いまさら寒さが身にしみたのか、お小夜はゾッと身ぶるいをする。 「すると、親分、このうちではまだ人殺しがあったことに気がつかねえんでしょうな」 「ふむ、こう寝しずまっているところをみるとそうらしい。お小夜さん、ひとつそのお座敷へ案内してくれませんか」 「はい」  お小夜はよろよろ立ちあがったが、そのときだった。  むこうのほうが、にわかに騒がしくなったかと思うと、 「お小夜さん、お小夜さん」  と、お小夜をさがす声がする。 「おお、やっと気がついたな。お小夜さん、あの声はだれだえ」 「はい、銀蝶さんといって、だんなのお気にいりの太鼓持ちでございます」  こちらの声がきこえたのか、大入道の銀蝶はあしばやにかけつけてくると、 「あっ、お小夜さん、おまえさん、こんなところにいなすったのか。祝言の晩に花嫁御寮が抜けだしちゃしようがねえじゃねえか。だんながお待ちかねでございますよ」 「えっ、だ、だんなさまが……」  お小夜は大きく目をみはって、 「だんなさまって、いったいどなた……?」 「おいおい、お小夜さん、とぼけちゃいけませんよ。だんなさまって、おまえさんのご亭主《ていしゅ》のことさ。こんや祝言の杯をした、大和次郎三郎さまという、おまえさんにとっちゃかわいい男さ」  お小夜はそれを聞くとまっさおになった。 「そ、それじゃ、あの次郎三郎さまが、あたしをお待ちかね……」  お小夜はまた気が遠くなりそうになって、思わずふらふらよろめいたが、それをうしろから抱きとめたのは佐七である。 「お小夜さん、しっかりしねえ」  銀蝶ははじめて三人のすがたに気がついて、 「わっ、お、おまえさんはいったいだれだ」 「あっはっは、なにもびくびくすることはねえ。おれはお玉が池の佐七といって、十手捕りなわをあずかるものだ」 「あっ、こ、これはお見それいたしました。しかし、その親分さんがどうしてここへ……?」 「いまこの表を通りかかったところが、裏木戸のところにお小夜さんが倒れていたので、たすけ起こしたんだ。ところが、お小夜さんのいうのにゃ、だんながさっき殺されたとのこと。それでいま検分にいこうとしていたところだ」 「だ、だ、だんなが殺されたって? と、とんでもない。お小夜さん、縁起でもねえことをいうものじゃねえ。だんなはあっちで……」 「銀蝶さん、それじゃとにかく、そのお座敷まで案内してください。だんなの達者なおすがたさえみれゃ、だれしも納得のいくことだ」  銀蝶はちょっとためらったが、 「いや、ようがす。それじゃこっちへおいでなすって」  銀蝶のあとについて、はなれ座敷のまえまでくると、その足音を聞きつけたのか、さっきお小夜がとび出した雨戸のなかから、 「銀蝶か。お小夜は見付かったか」  いらいらしたような男の声。それをきくと、お小夜はまた、さっと血の気をうしなった。 「へえへえ、やっと探してきましたよ。それそれ、お小夜さん、だんながお待ちかねだ。つまらねえこといってねえで、早くおそばへいきなせえ。親分、これで納得いきましたか」 「おや、銀蝶さん、どなたかお客様かえ」  こんどは女の声である。 「へえへえ、ご隠居さま、お小夜さんがつまらねえ夢を見たらしく……だんなが殺されたなんて……それでお玉が池の親分をひっぱってきたんでございますよ」 「なんだ、おれが殺されたと……? バカなことをいっちゃいけない。おれはびょうぶで背中を打って、ちょっと気をうしなっていただけなんだ。さあ、お小夜、なにも心配することはない。早くこっちへおはいり。花扇、お小夜がかえってきたから、おまえにはもう用はない。じぶんの部屋へかえれ。おまえはあしたの晩かわいがってやる。あっはっは」  佐七は辰や豆六と顔見合わせ、それから雨戸のなかをのぞいてみた。  張りめぐらせた金びょうぶのまえに、三枚がさねの敷き布団、そのうえにぐんにゃりあぐらをかいているのは、まぎれもなくくらげ大尽の次郎三郎。  その次郎三郎のうしろから、かかえるようにしているのは、次郎三郎の伯母《おば》にちがいない。  六十前後の品のいい、切り髪の老女である。  そして、そばには遊女の花扇が、なまめかしい緋《ひ》ぢりめんの長じゅばん、まだ勤めの気のうせぬ色っぽさですわっている。  伯母のお篠《しの》はお小夜を見つけて、 「まあ、お小夜、どうしたものじゃ。そなたのすがたがみえぬというので、次郎三郎がえらい騒ぎじゃ。なるほど、これはわがままものゆえ、どんな無理をいうたかしらぬが、それを辛抱するのが嫁の勤めじゃ。うかうかしていると、花扇にだんなをとられてしまうぞや。ほっほっほ、花扇や、よいあんばいに小夜がかえってきたから、今夜はあの子にだんなをまかせて、おまえはむこうへいってやすむがよい」  佐七はそういうお篠の顔から、目を金びょうぶにうつしたが、しかし、それはどこも破れておらず、また血の跡もない。  それでは、お小夜は夢を見たのか。  しかし、お小夜の両手をまっかにそめたあの血潮は……?  そのとき、うしろでうめき声がきこえたので、佐七がぎょっとふりかえると、お小夜がまた気をうしなったらしく、抱きとめる辰と豆六の腕のなかにくたくたと……。  大尽不死身くらげ   ——とかげのしっぽが生えてくるように  佐七をはじめ辰と豆六、ちょっと引っ込みがつかなかった。  お小夜が夢を見たにしろ、そうでないにしろ、次郎三郎が生きているとあっては、この場に用のない三人である。 「いや、どうもおじゃまをいたしました。だんながごぶじとわかればあっしも安心。とんだお騒がせをして申し訳ございません」 「とんでもない。お役目とはいいながら、ご苦労様でございます。もし、銀蝶さん、親分さんを木戸までお送り申し上げてくださいな」  お篠のことばに、 「へえへえ、承知いたしました。それじゃ、親分、どうぞこちらへ」  太鼓持ちの銀蝶に送られて、裏木戸から外へでた三人は、星明かりのしたで、きつねにつままれたような顔を見合わせると、 「ハ、ハークション!」  と、辰がまたやけに派手なくさめである。 「ちっ、いまいましい。こちとらがこんな寒い思いをしているのに、あのくらげ男め、錦《にしき》の夜具にくるまって、これからお小夜を抱いてねるのか。思えばおもえば業が煮えるわ」  辰はしきりにくやしがっているが、豆六はしかし子細顔に、 「そやけど、親分、こら、なんやおかしおまっせ。くらげ男はぶじやとしても、そんならお小夜の手についていたあの血はどないしたんだっしゃろ」 「それよ。辰、豆六」 「へえへえ」 「今夜はこのままかえれねえぜ」 「このままかえれねえというと……?」 「ちょっと耳をかせ」  と、佐七がなにかささやけば、 「えっ、そんならここで朝まで見張りを……」 「バカ野郎、大きな声を出すない!」  と、佐七はあわててあたりを見まわし、 「とにかく、ここはいちおう立ち去ったように見せなきゃアいけねえ。両国のへんまでいって、それからまた、こっそり引きかえしてこようじゃねえか」  と、三人はいったんそこを立ち去ったが、こちらはくらげ大尽の寝所である。  今夜二度まで気をうしなったお小夜は、お篠や花扇の介抱で、それからまもなく正気にもどったものの、あまりたびたびのショックのために、とても夫婦の語らいどころではない。  ぐったりとして、たださめざめと泣くばかり。  くらげ大尽は気をいらだてて、しきりに苦情をならべたてていたが、それを見るにみかねたのが、遊女あがりの花扇である。 「もし、だんなさま、お小夜さまは今夜はむりです。新枕《にいまくら》のお楽しみは、明晩までおあずかりとしておいて、今夜はわたしのほうへおいでなさいまし」  と、くらげ男に寄り添って、こんにゃくのような手をとれば、 「げっ、そ、そんなら今夜は、おまえが伽《とぎ》をしてくれるというのか」  と、伯母のお篠《しの》と顔見合わせ、どういうわけか目をしろくろ。 「おっほっほ、いやなだんなさま。どうしてそんな顔をなさいます。どうせわたしはお小夜さんとはくらべものにはなりますまいが、それでもゆうべはかわいいとおっしゃってくださいました。もし、お小夜さま」 「はい……」 「今夜はわたしがだんなさまをおあずかりいたしますよ」 「花扇さま、す、すみません」 「いいえ、どうせわたしは傷物ゆえ……」 「えっ?」 「いえ、あの、あなたは今夜よくおやすみになって……たとえひと晩でもきれいなからだで……もし、捨松さん」 「へえへえ」  呼ばれて障子のそとに手をついたのは、沼津からくらげ大尽についてきた男衆である。 「だんなをおんぶして、あたしのお部屋へご案内してください。ご隠居さま。それでは今夜は、わたしがだんなのお守りをいたしますから」  伯母のお篠と次郎三郎は、なんだか妙な顔をしているが、そこは廓《くるわ》そだちの遊女の花扇、そんなことにはおかまいなしに、捨松に次郎三郎をおんぶさせると、さっさとじぶんの部屋へひきあげた。  伯母のお篠がふしょうぶしょうそのあとを追って出ていくと、あとにはお小夜ただひとり。 「花扇さま、すみません」  と、うしろ姿を伏しおがんで、ひとしきり泣いていたが、やがて気を取りなおすと、あらためて座敷のなかを見まわした。  ふしぎなのはさっきの出来事である。じぶんは夢でも見ていたのであろうか。  いやいや、そんなはずはない。  たしかに、だんなの背中から恐ろしい血が吹き出して、げんにその血がじぶんの手を真っ赤にそめていたではないか。  お小夜はそっと布団のうえからすべりおりると、まくらもとに立てまわしてある金びょうぶのうしろにまわった。  金びょうぶのうしろはふすまになっていて、ふすまをひらくととなりは六畳、六畳のそとは廊下である。  だれが次郎三郎を刺したにしろ、そいつはこの六畳からやってきて、金びょうぶのうしろにかくれていたにちがいない。  お小夜はなにか証拠になるような品はないかと、六畳から廊下へ出ようとして、ふと足にさわったものがあったので、拾ってみた。  それは女持ちの紙入れだったが、つくづくそれを見ているうちに、お小夜の顔がさっとかわった。 「あっ、こ、これはいつかわたしがにいさんに……」  お小夜の兄の藤太郎が、いつか両親にもないしょで、そっと無心にやってきたとき、お小夜は紙入れごと金をわたしたが、いま拾ったこの紙入れは、たしかにそのときの紙入れだった。 「それでは、にいさんが、こんやここに……」  藤太郎がくらげ大尽を付けねらっているということは、お小夜もひとに聞いてしっていた。  その藤太郎がこんやここへきたからには、手をつかねてかえるはずがない。  それではやっぱり、さっきのことはほんとうで、だんなをえぐったのは兄さんだったのか。  しかし、それにしても、だんなになんのお変わりもないのがふしぎである。  ひょっとすると、くらげ大尽というひとは、とかげがしっぽを切られてもまた生えてくるように、いくら突かれてもえぐられても、すぐまた治る不死身のからだを持っているのではあるまいか……。  そう考えると、お小夜はあまりの気味悪さに、寝床へかえると、また身をふるわせて泣きむせんだ。  お大尽|葛籠《つづら》の中   ——お小夜は夢を見たのじゃなかった  それはさておき、こちらは人形佐七である。  いったん両国まで引きかえすと、なじみの舟宿で小舟を一隻借りうけて、辰にこがせて竪川《たてかわ》づたいにひきかえしてきたのが柊屋《ひいらぎや》の寮。  辰はもと舟宿で船頭をやっていたのだから、舟をこぐのはお手のもの、寮とははんたいがわの岸に舟をもやった。  夜はもうすでに九つ(零時)を過ぎて、往来をする舟もなく、寮はしいんと寝しずまっているらしい。  そうでなくとも冷えこむ初冬の夜の川のうえだからたまらない。 「親分、親分、いいかげんに引きあげましょうよ。いったい、なにを待ってるんです。いくら待ったって、もうなにも起こりゃしませんぜ。冷えこんだせいか、おらア下っ腹が痛くなってきた」  辰はさっきからあくびの連発。  そしてあくびのあいまあいまに愚痴たらたらである。  さすがの佐七も、とうとう腹にすえかねたのか、 「辰、いいかげんにしろ。そんなにいやならさきにかえれ」  と、いささか声が荒くなる。 「親分、あっしゃなんにもいやだというんじゃありませんよ。ただ、いまいましいんでさあ。だって、バカらしいじゃありませんか。くらげ大尽めが女を抱いてぬくぬく寝てるのを、こちとらこんな寒い思いをしてまで、なにも見張ってやらなくてもいいじゃありませんか」 「だから、いやならかえれというんだ」 「親分、それじゃなにか起こるというんですか」 「それゃわからねえ。わからねえがこれも御用だ。少々寒いくらいは辛抱しろ。豆六をみねえ、神妙にしてるじゃねえか」  なるほど豆六はふなべりにほおづえついて、貧乏ゆすりをしながらも、しきりに寮を見張っている。 「ふうん、豆六、てめえいやに神妙にしてるが、なにかお目当てがあるのか」 「兄い、うだうだいわんと、いやならとっととかえんなはれ、そしたら、わては親分とさしむかいで、少しでもよけいに酒が飲めるがな」 「げっ、そ、そんな用意がしてあるのか」 「親分、そろそろ出しておくれやす。わてもう寒さが身にしみてかないまへんがな」 「あっはっは、よしよし、辰や、おまえはかえってもいいよ。豆六とふたりで飲むからな」  と、笑いながらも佐七が取りだす一升徳利をみると、辰はもう目の色がかわっている。 「ちっ、親分もひとが悪いや。こんなものがあるならあるで、ひとこといってくだされゃア、あっしだってあんな愚痴はこぼしゃアしません。さあ、こうなったら矢でも鉄砲でもこい。朝までだって見張りをしますぜ」 「あっはっは、現金なやつだ」  と、そこは気のあった親分子分、舟のなかでの茶わん酒、さしつさされつしているうちに、どうやら体も暖まってくる。  体があたたまれば不平も消えて、辰も神妙に柊屋の寮を見張っていたが、と、九つ半(一時)を過ぎてまもなくのことである。  対岸にみえる柊屋の寮の水門が、ギイとひらいたかと思うと、なかから出てきたのは一隻の小舟である。  柊屋の寮は竪川の水をひきこみ、庭に大きな池が掘ってあり、寮のなかには舟も一隻かこってあるのだ。 「そら出た!」  三人がさっと舟底に身をしずめてうかがっているとしるやしらずや、寮を出た舟はそのまま大川のほうへこいでいく。それをしばらくやりすごしておいて、佐七が辰に合図をすると、 「おっと、合点です」  と、辰はすぐさま櫓《ろ》をとった。  ギイ……ギイ……と、二隻の舟が竪川のむこう岸とこちらの岸、少しはなれて、降るような星空のしたをこいでいく。 「親分、乗っているのはひとりですね」 「ふむ、こいでるやつだけだな。しかし、なんだか大きなものが舟のなかに積んであるじゃないか」 「親分、あら葛籠《つづら》やおまへんか」 「ふむ、おれもそう思っているんだが、こいつはいよいおもしろくなってきたぜ」 「おもしろくなってきたって、それじゃ、親分、おまえさんはあの葛籠になにが入っているのかご存じですかえ」 「そんなことは知るもんか」  とはいうものの、佐七にはなにやら確信があるらしい。 「しかし、あいつあの葛籠をいったいどうしようというんでしょう」 「まあ、いいから黙ってみてろ。いまにどうするかわかるだろうよ」  二隻の舟は二の橋すぎて一の橋、それをくぐると左は水戸様の石置き場、そのさきはいよいよ大川である。  そのころになってむこうの舟がにわかにスピードをはやめたのは、どうやら尾行に気がついたらしい。 「ちっ、とうとう気付きやアがったな。こうなったらかまうことはねえ。辰、追いついてそばへつけろ。あの葛籠を調べてやろうよ」 「おっと合点です」  辰は佐七のところへ転げこむまえ、ひところ舟宿の若いものをしていたくらいだから、舟にかけては玄人である。  それに反してむこうはあまり慣れないらしく、あせればあせるほど櫓《ろ》がすべって、舟がキリキリ舞いをはじめる。  見るみるうちに、ふたつの舟の距離がつまって、櫓をにぎった男の姿がはっきり見える。  紺の股引《ももひき》に印半纏《しるしばんてん》、それに頭巾《ずきん》をかぶっているらしい。  相隔たること約一間。 「おお、その舟、ちょっと待ってもらおうか」  佐七が声をかけたせつな、あいてはもうこれまでと思ったのか、こぐ手をやめると、いきなり葛籠に手をかける。  どうやら川に沈めるつもりらしい。 「畜生! それを沈められてたまるもんか」  相隔たること半間、佐七はやにわにむこうの舟にとびこむと、はっしとばかり、十手であいての利き腕をたたいたが、そのとたん、 「あっ!」  と叫んでうしろへ二、三歩。たじろぐとみせて、頭巾の男、いきなり水へとびこんだ。 「わっ、しもた!」  豆六はふなべりから乗り出したが、悲しいかな、かれは金づちである。  辰は泳ぎも達者だが、かれが飛びこむとこぎ手がない。  ふたりがまごまごしているうちに、頭巾の男は水をくぐって、みるみるうちに姿を消した。  佐七はしかしそのほうへは目もくれず、がんじがらめにゆわえた綱を解きほぐすと、いそいで葛籠のふたをとり、星明りでなかをのぞいた。 「親分、なにかありますか」 「ふむ、辰、豆六、こっちへきてみろ」 「へえ」  辰が舟をつないでいるあいだに、佐七はふところのちょうちんに灯を入れる。  そのあかりをかざしてもういちど葛籠のなかをあらためているところへ、とびこんできた辰と豆六、ひとめ見るなり、 「わっ、親分、こ、これゃくらげ大尽!」  いかにもそれはくらげ大尽、しかも背中をえぐられて、あけに染まって死んでいるのだ。  お小夜はやはり、夢をみたのではなかったのである。  お大尽ふたり   ——伯母のお篠苦肉の策の二人一役 「親分さん、恐れ入りましてございます」  葛籠《つづら》の死体をつきつけられると、お篠ももう観念したのか、すなおに両手をついて恐れいった。  大川で葛籠の死体を発見すると、すぐに舟をひきかえして、柊屋の寮をたたきおこしたのである。  柊屋の寮でも、ひとあしさきにぬれねずみになってかえってきた捨松の報告によって、すでに覚悟をきめていたらしく、お篠ももうわるびれなかった。  それにしても、佐七をはじめ辰と豆六……いやいや、かれら三人より、花扇やお小夜の驚きはどんなだったろう。  花扇はげんに、くらげ大尽といっしょに寝ていたのである。  お小夜の身代わりとなって、こよいの人身御供《ひとみごくう》にあがった花扇は、さんざんくらげ大尽にいやらしいことをされたあげく、やっとあいてを寝かしつけ、いつまでこんなことがつづくのかと、長じゅばんのたもとをつかんで、ひとりひそかに泣きむせんでいるところへ、くらげ大尽の死骸《しがい》がかつぎこまれたという報告がきたのだから、夢かとばかりおどろいた。  そして、捨松におんぶされたくらげ大尽のあとについて、いっしょに座敷へきてみると、そこにくらげ大尽のむざんな死体が横たわっていたのだから、あまりの無気味さに、花扇は気も狂わんばかりであった。  お小夜や銀蝶の驚きとてもおなじこと、銀蝶もいままでくらげ大尽がふたりいるとはゆめにも気付かなかったのである。  銀蝶が気付かなかったくらいだから、お小夜の知ろうはずがない。  ふたりとも、いま正面に座っているくらげ大尽と、眼前によこたわっているくらげ大尽の死体を見くらべ、総身の毛が逆立つほどの気味悪さに、口を利くことすらできなかった。  ふたりのくらげ大尽は、その醜さからおぞましさ、いやらしさから気味悪さまで、なにからなにまでそっくりだった。  ひょっとすると、くらげ大尽という人物は、下等動物のからだがふたつにわかれて繁殖するように、あの骨のない軟体動物のようなからだが、自由にわかれるのではないかと思われるばかりである。 「それじゃ、ご隠居さま、次郎三郎さまというかたは、ふたりいらしたのでございますね」  佐七はお源の話をきいたときから、ひょっとすると……と推察していたのだが、それでもいま、寸分ちがわぬふたりのくらげ大尽を目のまえにみると、やっぱり無気味さに声がふるえた。 「はい、親分さま」  お篠も声をふるわせて、 「次郎三郎はふたごでございました。いま、むこうに座っているのが兄の次郎、そこに死んでいるのが弟の三郎でございます」 「しかし、ご隠居さま、それをどうしていままで隠しておいでなすったのでございます」 「これは親分さまのおことばとも思えませぬ。ふたごはとかく世に忌みきらわれるもの、それもふつうのからだでもしていることか、あのようにあさましいかたわ者。ひとりでさえ世の物笑いになりますのに。それがふたごだと世間にしれては、由緒ある大和の家名に、どのような傷がつこうもしれませぬ。そこで、生まれたときから、ふたごということは世間にかくし、名前も次郎三郎と、ふたりをひとりとして育ててきたのでございます」 「そりゃまた、どういうふうにして……?」  それにたいするお篠の物語こそ奇怪であった。  沼津にある大和家の奥座敷には、ひとしらぬ秘密の地下室があって、ふたごは一日交替に、その地下室へかくれるのである。そして、うえの座敷で暮らすときは、ふたりとも次郎三郎と名乗っているのだが、あまりよく似ているものだから、だれひとりとしてその次郎三郎が一日おきに変わるとは気がつかなかった。  こうして秘密はながく保たれたが、困ったのはふたりが嫁をもらう年ごろになったことである。 「いかにふたごとはいえ、ふたりでひとりの嫁を持つわけにはまいりませぬ。そこで考えましたのが……」  お源の話にもあったあのふしぎな建築である。  母屋の東西にふたつの建物を建て、今夜兄の次郎が東の建物においてあるじぶんの妻のもとにかようと、明晩は弟の三郎が西の建物に住んでいるおのが女房にあいにいくのである。  そして、そのあいだ、あとのひとりは、神妙に地下室にかくれているのであった。  だから、西の妻も東の女房も、じぶんのところへくる夫と、むこうの女にかよう男がべつの人間とはすこしも知らず、そのために、やきもちげんかのたえまがなかったという。  聞いてみると、いかにもそれはこっけいな話であった。  しかし、当事者にしてみればこっけいどころか、これほど深刻な問題はなかったであろう。  由緒ある大和の家名と、男としての性本能を、どう調和させるかということを考えれば、これよりほかに方法はなかったかもしれぬ。 「しかし、その次郎さんや三郎さんがたびたびおかみさんを変えたというのは……?」 「それはやっぱりおたがいに競争心があったからでございます」  いつも次郎の妻は東の離れに、三郎の家内は西の建物に住まっていたが、ふたりはそうしておなじ邸内に住んでいると、器量なり気性なりに、優劣がつくのはさけられぬ。  奉公人からそういう評判をきくと、負けたほうがくやしがり、じぶんの妻を追い出して、あいてに負けぬ女房を探そうとするのである。  勝ったほうは勝ったほうで、あいてがどんな美人を探しだすかと思うと不安になって、これまた女房をたたきだし、さらによい女をと探すのである。 「そういうわけで、いくら家内をかえたところが、どちらかに負け劣りがございますから、きりがございませぬ。そのために、わたしはいままでどのように苦労いたしましたか。これの母は、これが生まれたとき、驚きのあまり血がのぼって死にましたし、これの父はわたしの弟でございますが、それもまもなく気が狂って死んでしましました。それいらい、苦労はすべてわたしの肩にかかってきましたのに、こんどはまた、銀蝶さんにそそのかされ、江戸まで嫁さがしにいくというので、わたしはどのように気をもんだことでございましょう」  これがたんに、かたわというだけならまだよかった。しかし、次郎三郎の場合は、ふたりでひとりの役をしているのだから、そこに人知れぬ苦心があるのだ。  道中、次郎と三郎は、かわるがわる長持ちにかくれた。  そして、江戸へつくと、兄の次郎は玄人をのぞんで、一日おきに吉原へかよった。  三郎はそのはんたいに生娘がのぞみで、これまた一日おきに駕籠《かご》で江戸を歩きまわった。  どちらの場合も銀蝶が供だが、かれは一日おきにだんなが変わっているなどとは、ゆめにも知らなかったのである。  こうして、ゆうべは次郎が花扇と婚礼し、今宵《こよい》は三郎がお小夜と祝言し、いままさに夫婦の契りを結ぼうとするところで、こんなことが持ちあがったのである。 「なるほど。それで、下手人について心当たりはございませんか」 「ございません。お小夜の叫びがきこえたので、きてみると三郎が殺されています。わたしもびっくりしましたが、これを表ざたにすると、次郎はもう永久に日の目を見ることができません。なぜといって、次郎三郎はひとりの人間ということになっておりますから……そこで、いそいで死骸《しがい》をかたづけ、金びょうぶもとりかえ、畳の血もふきとりまして、それから今夜は長持ちに入っているばんの次郎を呼んできて、身代わりを勤めさせたのでございます。また、三郎の死骸を川へ沈めようとしたのも、次郎を日陰者にするのがふびんでございましたから……下手人については、いっこう心当たりはございませんが、物取りかなんかのたぐいではございますまいか」  お篠が苦労多げにこういう話をしているあいだ、当の次郎は大きな座布団にぐっちゃり座って、こんにゃくのように体をふるわせながら、しかし、いっこう恥ずる色もなく、いやらしい目でお小夜の顔から腰のあたりをなめまわすように見つめているのである。  お小夜はそれに気がつくと、ぞっと身をすくめた。  その後の大和一家   ——銀蝶がお小夜を口説くんでさあ  お篠の打ち明け話によって、くらげ大尽ふたり妻の真相はあきらかになったが、しかし、これで事件が片づいたというわけではない。  三郎を殺したのは何者か。  それがわからないかぎり、事件が解決されたとはいえぬ。 「しかし、親分、それはわかってるじゃありませんか。お小夜の兄の藤太郎にきまってまさあ」 「さよさよ、兄いのいうとおりや。げんに藤太郎のやつ、柊屋《ひいらぎや》の寮からこっそり抜け出してきよったやおまへんか」 「ふむ、あいつが藤太郎かどうかわからねえが、ともかくおまえたち、藤太郎の居所をさがしてみろ。見付かったら逃がさぬように、おれのところへ連れてくるんだ」 「おっと合点だ。豆六、いこうぜ」  その翌日のことである。  ゆうべほとんど眠らなかったので、昼過ぎまで寝ていた辰と豆六は、目がさめるとさっそく藤太郎をさがすためにお玉が池をとび出したが、さて、その晩かえってきたふたりは、なんとなくがっかりした顔色だった。 「親分、いけねえ、藤太郎のやつは高飛びをしたらしい」 「高飛びをしたと……? それじゃ居所はわかったのか」 「へえ、わかりました。親分もご存じの馬道に住んでいるからすの平太のところへいってみたんです」  からすの平太というのは、以前は悪党仲間にそうとう顔をうった男だが、その後足をあらって、いまではひそかに諜者《ちょうじゃ》のような役をしている男で、そこへいけば、凶状持ちやならずものの動静は、たいていわかるようになっているのだ。 「平太は藤太郎をしっていたか」 「へえ、知ってました。藤太郎のやつも、そうとうの顔になってるようです。その藤太郎なら、深川えんま堂橋の坂崎さんの賭場《とば》に、たいてい入りびたっているというんで、それからすぐに、えんま堂橋へまわってみたんです。さいわい坂崎屋敷には顔なじみの折り助がいるんで、そいつを呼びだして聞いたところが、藤太郎ならゆうべおそく四つ半(十一時)過ぎに、ぬれねずみになってやってきたというんです」 「ぬれねずみになって……?」 「さよさよ、そやさかいに、親分、ゆうべのやつはやっぱり藤太郎にちがいおまへん」 「ふむ、それで藤太郎が高飛びしたらしいというのは……?」 「それはこうです。藤太郎のやつ、ぬれねずみになっていたが、ふところにはそうとう金を抱いていたらしく、いままでのばくちの負けをすっかり払ったうえに、仲間のやつの衣類を譲りうけ、当分あえねえかもしれねえといって、かえっていったそうです」 「ばくちの負けはどのくらいあったんだ」 「一両二分やったそうやが、それを払ったうえに、一同に酒を振る舞いよったちゅう話だす」 「ふうむ。すると、そうとう持っていたな」 「そうですよ。だから、ちょび平なども……ちょび平というのがあっしのしってる折り助なんですが……ちかごろいつもピーピーしてる藤太郎が、いったいどこで金を手に入れたかと、ふしぎがっているくらいなんです。そうそう、それから藤太郎のやつ、かえりぎわに妙なことをいってったそうですよ」 「妙なことって……?」 「しばらくここへもこれねえが、いまから二十一日目にはきっと舞いもどってくると……」 「二十一日目……?」 「そうなんです。二十一日目といやア三七日《みなのか》です。死人でもありゃしめえし、縁起でもねえこというなって、みんなで笑ったそうです」  佐七はだまって考えていたが、やがて辰と豆六の顔をみて、 「おまえたち、その話をどうおもう。藤太郎のやつ、どこで金を手に入れたか……」 「そら、親分、柊屋の寮にきまってまんがな。三郎を殺したついでに、金を盗んできよったにちがいおまへん」 「しかし、二十一日目に舞いもどってくるというのは、どういうわけだ。まさか、じぶんが殺した男の三七日をしにかえるわけじゃあるめえ」 「あっしもそれがおかしいと思うんですが、冗談にいったのかもしれません」  佐七はまただまって考えていたが、 「辰、豆六、おれがおかしいというのは、そのことばかりじゃアねえんだ。じつは、ゆうべから少し妙だと思っていることがあるんだ」 「親分、そりゃアどういうことで」  佐七は少しひざを乗り出すと、 「ゆうべ、くらげ大尽の三郎がお小夜と床入りになったのは五つ半(九時)。これはお小夜もそういったし、隠居のお篠もいっている。そして、くらげ大尽はそれからすぐに殺されたんだ。ところが、おいらが藤太郎の塀《へい》を乗りこえてくるところを見たのは四つ(十時)過ぎ。もし三郎を殺したのが藤太郎だとしたら、藤太郎は半刻《はんとき》(一時間)あまりも寮のなかで、いったいなにをしていたんだ」 「なるほど、それはちと妙ですね」 「親分、そら藤太郎のやつ、金のありかを探してたんとちがいまっしゃろか」 「それにしたって、半刻(一時間)というのは長過ぎる。豆六、てめえは人殺しをした家で、半刻もがんばっていることができるかい」 「親分、冗談いわんといておくれやす。しかし、そういわれると妙だんな。なんぼ度胸のよいやつやかて、人殺しをしたあとで半刻もねばってるちゅうのは……」 「親分、それについておまえさんの考えは……?」 「いや、おれにもこれといった考えはねえ。しかし、おれの思うに、お篠の話はあれでぜんぶじゃねえぜ」 「ぜんぶじゃねえというのは……?」 「ゆうべ、柊屋の寮のなかでは、もっとなにかあったにちがいねえ。お篠はそれを知ってかくしているのか、それともまるで知らねえのか……おい、辰、豆六」 「へえへえ」 「ご苦労だが、おまえたち、ここ当分、柊屋の寮から目を放さねえようにしてくれ。おらアもっとなにかありそうな気がしてならねえ」 「おっと合点です。それじゃときどきまわってみましょう」  そういうわけで、辰と豆六、それから毎日|竪川《たてかわ》へ出向いて、それとなく柊屋の寮に気をくばっていたが、十日ほどたって、 「親分、柊屋の寮について、ちょっと妙なことがあります」 「妙なことってどういうんだ」 「きょう緑町の伯母《おば》のところで、捨松という男にあったんです。ほら、三郎の死体を葛籠《つづら》につめて、大川へ沈めにいったやつです。その捨松がいうのに、ちかごろ太鼓持ちの銀蝶が威張りかえっているので、しゃくにさわってならねえというんです」 「なんだ、銀蝶はまだあの寮にいるのか」 「いるどころか、親分、以前はペコペコしていたやつが、あの一件いらい、どういうわけかすっかり威張りかえって、まるでじぶんが主人のようにわがままほうだい、お篠も次郎もまるで頭があがらねえそうです」 「ほほう、そいつはまた妙だな」  佐七はキラリと目を光らせる。 「妙ですとも。銀蝶のやつは威張ってるばかりじゃなく、お小夜にほれてくどくんだそうです。ところが、お小夜がうんといわねえもんだから、お篠に取り持てってきかねえんだそうで、これにはお篠も弱ってるってえ話です」 「ああ、お小夜もまだあの寮にいるんだな」 「そら、お小夜は大和の家へ嫁にいったもんだすさかい、亭主《ていしゅ》が死んだかて、そうすぐにはもどられしまへん。それに、なにせ、千両ちゅう大金を両親がもろてるもんだすさかいな」 「それでも、三郎の三七日がすぎたら離縁して実家へかえしてもいいと、お篠もはじめはいってたそうですが、銀蝶のやつがそれを聞いて、離縁するくらいなら、おれの嫁によこせというんだそうです」  佐七はまだだまって考えていたが、 「それで、次郎のやつはどうしているんだ」 「あいつはもう、花扇のそばにつきっきりだそうで。というよりは、花扇のほうが離さねえらしい。なにせ、おなじ屋根の下にお小夜というべっぴんがいるんですから、そっちのほうへはっていきゃアしねえかと、花扇は気が気じゃねえようだと、捨松もわらってましたがね。いや、玄人あがりのやきもちというやつは、人一倍はげしゅうございますからね」  そういいながら辰がジロリと横目で見たのは、佐七の女房のお粂である。  お粂というのがおなじ吉原の花魁《おいらん》あがりで、これがまた猛烈なやきもち焼きときているのである。 「いやだよ、辰つぁん、なにもあたしの顔を見なくてもいいじゃないか」 「えっへっへ、そういうわけじゃありませんが……もっとも、ちかごろは親分も変なところへはっていかねえようだから、あねさんも天下泰平でよござんすね」 「というて、油断してるとまたそろそろ……」 「バカ、辰も豆六もよけいなことをいうな」  佐七はにが笑いをしながら、まただまって考えていたが、 「辰、豆六、おれはどうもこの一件が気にかかってならねえ。こののちとても、おまえたち、柊屋の寮に気をつけてろ」 「へえ、そりゃアもう合点です」  と、辰と豆六はその後も毎日、柊屋の寮に気をくばっていたが、べつに変わったこともなく、今夜はいよいよ三郎の三七日……。  お大尽からみ合い   ——くらげ男は吸盤を持ったように  非業に死んだくらげ大尽のかたわれ、三郎の三七日の回向がお開きになったのは、夜ももう五つ半(九時)過ぎ。  お小夜はそのあとかたづけを手伝ったのち、じぶんの部屋へかえってくると、ぐったりと寝床に身をよこたえた。  三七日がすめば離縁して実家へかえすと、はじめのうち隠居のお篠はいっていたが、ちかごろ雲行きが変わったようだ。  しかし、それについてはお小夜もべつに気にかけていない。  たとえまくらはかわさずとも、祝言の杯したからには、じぶんは三郎の妻であり、大和の家の嫁である。  離縁になろうがなるまいが、お小夜は尼になったつもりである。  そういうお小夜にとって、ちかごろ不安のたねは銀蝶《ぎんちょう》のふるまいである。  すきさえあれば、お小夜をくどくそのあつかましさ、胸が悪くなるばかりである。しかも、それにたいして、お篠がなにもいわないのがふしぎである。  それともうひとつお小夜の不安は、次郎がじぶんをみる目付きだ。さいわいこのほうは花扇のおかげでのがれてきたが、もし花扇さんがいなかったら……。  おもえば、三郎が殺された晩、次郎はその身代わりとなってじぶんと寝ようとした。  あのときじぶんが弱っておらず、花扇さんがむりやりに連れていかねば、次郎はほんとにじぶんと寝るつもりだったのだろうか……。  それを思うと、あまりのあさましさ、恐ろしさに、お小夜は身うちがすくむ思いである。  離縁はかならずしも願わないけれど、いっときも早くこのうちを出たい……。  寝床のなかでとつおいつ、お小夜がそんなことを考えているとき、縁側の障子がしずかに開いた。ぎょっとして、寝床のうえに起きなおったお小夜の目にうつったのは、酒に酔うてぎらぎらと目を光らせている大入道の銀蝶である。 「あれ、いけません、銀蝶さん、こんなところへはいってきては……」  お小夜はあわてて長じゅばんの胸をかきあわせる。  しかし、銀蝶はにやにやしながら、いかにも好もしそうにお小夜の姿を見まもっている。  まるでなめまわさんばかりの目付きである。息遣いが迫ってくる。 「いけません、銀蝶さん、出ていってください。そうでないとひとを呼びますよ」  しかし、銀蝶は出ていくかわりに、うしろの障子をぴったり閉め、いきなりお小夜におどりかかった。 「ひとを呼ぶならよんでみろ。おれがここへくることはお篠ばばあも承知のうえだ。おまえがいくら声を立てたところで、だれがくるものか」  抱きすくめる大兵肥満の銀蝶のねまき一枚、脂ぎったからだが燃えるようである。まえからがっちり羽交いじめにされて、のけぞるお小夜ののどのあたりを、銀蝶のあつい息がうつ。 「銀蝶さん、離して、離して……」  もがくはずみに、胸がはだけてすそがみだれる。むっちりとした白い乳房のうえにちりばめられた紅珊瑚《べにさんご》、すそをわってこぼれるひざっ小僧から内股《うちまた》へかけての、ほどよく脂ののったつややかさ……。  それを見ると、銀蝶の目が狂ったように血走ってきた。 「これ、お小夜、なにも恥ずかしがることはねえ。くらげ男のおもちゃになるくらいなら、おれのほうがどれだけましだかしれゃアしねえ。これ、じっとしていねえか」  銀蝶の熱いくちびるが、ピタリと紅珊瑚に吸いついた。銀蝶はしばらくそれを舌であやしていたが、やがてはげしく吸いはじめると、片手をのばしてすそをわりはじめる。 「あれ、銀蝶さん、かんにんして……」  お小夜は身をよじって抵抗しようとするのだが、銀蝶は左手でがっきりお小夜の背中を抱きしめ、右脚はもうすでにお小夜の片脚にからみついている。膚と膚とがじか接触して、男のもえるような体温が、お小夜の柔膚にやきつくようだ。  銀蝶はからみつけた片脚を挺《てこ》のように応用して、お小夜のひざをわりながら、しかも、その手はしだいに奥へすすんでくる。  労働をしたことのない銀蝶の手は女のようにやわらかく、いやらしくそこらじゅうをはいまわる五本の指は、昆虫《こんちゅう》の触角のように、奇妙な触感をもっている。しかも、その触角はじりじりと奥をめざしてすすんでくる。  いっぽう、紅珊瑚に吸いついた銀蝶のくちびるにはますます力がこもってくる。  奇妙の触感をおびた銀蝶の触角は、まもなくあわやというところへとどきそうになってきた。 「銀蝶さん、はなして、はなして、あたし、いや!」  お小夜は二度三度、強くからだをゆすぶったのち、力いっぱい男の体をつきはなしたが、女とはいえ、自己防衛の本能からくる力はおそろしい。  それと、銀蝶のほうにもゆだんがあった。もうこっちのものという思いあがった心のゆるみがあったのだろう。 「あっ!」  と叫ぶと、敷き布団のうえからすべりおち、畳のうえに大きなしりをドシンと落として、いやというほどまくらびょうぶに背中をぶっつけた。  その男にがっきり片脚からまれているのだからたまらない。お小夜もはずみをくらって、男のはだけた胸のうえに折りかさなって倒れたが、男はすかさずその髷《まげ》をひっつかみ、 「おのれ! おのれ!」  バリバリと歯ぎしりをかむ音をさせながら、 「生娘だと思って、やさしくすれゃアつけあがりゃアがって……こうなりゃかわいさあまって憎さが百倍、痛い目させても思うぞんぶんなぐさんでやらにゃ腹の虫がおさまらねえ」  怒気満面、お小夜の髪をひっつかんだまま、起きなおろうとしたとたん、 「ぎゃあッ!」  かえるを踏みつぶしたような声だった。  両目をかっと見開き、醜悪な太股《ふともも》のおくのおくまでまくれあがった両脚でばたばた畳をけりながら、しばらく全身を波のように痙攣《けいれん》させていたが、やがてがっくりまえのめりにのめった。  お小夜はやっと虎口《ここう》を脱したおもいで、いそいで体をおこすと、乱れた胸やすそをかきあわせながら、 「銀蝶さん、いいかげんにしてください。変なまねをすると承知しませんよ」  あえぎあえぎそれだけいうと、なにげなく銀蝶のほうへ目をやったが、そのまま凍りついたように動かなくなった。  銀蝶のねまきの背中がひとところ裂けて、そこから黒いしみがひろがっていく。  びょうぶに目をやると、そこにもひとところ裂けめができていて、返り血がぐっしょりと……。 「…………」  お小夜は叫ぼうとしたが、のどをふさがれたように声が出なかった。  ああ、またおなじようなことが起こったのだ。婚礼の晩とおなじようなことが……びょうぶのかげにだれかいて、うしろから銀蝶をえぐったのだ。 「だ、だれ……そこにいるのは……?」  お小夜がやっとふるえてやまぬ声をかけると、びょうぶのむこうでもぞもぞと、もののうごめく気配がした。  お小夜はゾッと夜具のうえでひとひざふたひざあとずさりしたが、そのときびょうぶのむこうから、よたよたといざり出たのは、くらげ大尽の次郎である。  右手に血を吸った匕首《あいくち》をにぎっていて、くちびるが異様にねじれている。  お小夜はおびえきっているのだが、おびえきっているところがまたいっそうなまめかしい。  次郎はにやりと笑って舌なめずりをする。  お小夜ははっと吐胸《とむね》をつかれた。一難去ってまた一難、前門のとら、後門のおおかみとはこのことだ。  お小夜は立って逃げようとするのだが、次郎の視線に射すくめられると、腰が抜けたようになって、思うようにからだが動かない。  次郎はよたよたと夜具のうえにはいのぼると、匕首をそこへおいて、ぴったりとお小夜のからだに寄り添った。 「お小夜、お小夜、おまえはなんでそんなに怖がるのじゃ。亭主がきたのにふるえるやつがあるもんか」 「いいえ、いいえ、ちがいます。次郎さま、あたしは三郎の妻です。そこ離して……」 「あっはっは、よういうた。よういうてくれたな。わしがその三郎じゃ。おまえの亭主の三郎はこのわしじゃ」 「えっ!」  お小夜は弾かれたように、醜い顔を見なおした。しかし、彼女には次郎と三郎の区別など、つきようがないのである。 「次郎さま、冗談はおよしになって……」 「いいや、冗談じゃない。これ、お小夜、よくお聞き。おまえにほれて嫁に懇望し、祝言の杯までしたのはこの三郎、わしじゃ。わしはそのあとで支度をしに奥へいったが、そこで長持ちをひらいて、かくれている次郎のやつをからかってやった。おまえのほうが花扇よりよっぽどべっぴんだったからな。ところが、次郎め、いつかおまえをかいま見て、横恋慕をしておった。わしの油断を見すまして、いきなりのどをしめ、長持ちのなかへ引きずりこみおった。そして、じぶんはおれの身代わりとなり、おまえのところへはってきよった」  長持ちの内と外、軟体動物のようなふたりのくらげ大尽があい争うところを想像すると、お小夜はあまりの気味悪さに、身も心も凍るおもいである。 「おれはまもなく正気にもどった。やっと長持ちをぬけだして、びょうぶの外まではうてくると……」  三郎はそこでいやらしくくちびるをねじまげてにたりと笑うと、 「お小夜、お小夜、あのときおまえは次郎めに、なにをしてもらったのじゃ、いやさ、なにをされたのじゃ。そうとう鼻息を荒くしていたじゃないか。うっふっふ」  お小夜は屈辱と自己|嫌悪《けんお》のために熱くなる。三郎もそれに気がついたのか、すぐ慰めがおに、 「いや、しかし、それもむりはないわさ。あのときおまえは次郎のやつを、わしじゃとばかり思いこんでいたのじゃからな。だから、わしはおまえを疑うんじゃないぞ。はんたいに、ようやったと、ほめてやりたいくらいじゃ。途中でおまえは少しおかしいと気がついたんじゃろ。あわやというところで、おまえは次郎を突きとばした。そこで、わしがひと思いに……」  三郎はそこでものすごい微笑をうかべると、 「さあ、こういえば、わしが三郎だということがわかったろう。次郎のおかげでのびた新枕《にいまくら》、きょうあらためて夫婦の語らいしようぞ」  三郎は全身に吸盤をもっているもののごとく、ぴったりお小夜の膚に密着してはなれない。 「あれ、だんなさま、なんぼなんでも、そこに恐ろしい死体がころがっているというのに……」  しかし、この奇怪なくらげ男には、世のつねの常識や道徳は通用しないらしい。 「そんなことはどうでもよい。銀蝶のやつは、おれが三郎だということを見破って、伯母《おば》やおれを脅迫しおった。おまえに手を出すやつはだれでもかまわぬ、おれは片っぱしから殺してやるのじゃ」 「でも……でも、あなたには花扇さまが……」 「あっはっは、お小夜、おまえやきもち焼くのか。花扇のやつは、おれを次郎と思いこんで、そばを離れぬようにしていたが、あんな女になんの未練があろう。あいつはただ、廓《くるわ》でならいおぼえた手練手管を、お義理に繰りかえしているだけのこと。おなじことでもおまえにしてもろうたほうが、おれにはどんなにうれしかろう。これ、亭主がきたのになぜいやがる。なぜ、そのようにふるえるのじゃ。次郎めにさせたこと、わしにもさせてよいではないか。どれどれ、それではひとつ……」  お小夜はあまりの気味悪さ、恐ろしさに、金縛りにあったように身動きもできない。  それをよいことにして、くらげ男はお小夜を仰向きに押したおすと、荒い息を吐きながら、ぐんにゃりと、全身のおもみをかけてのしかかってきた。そして、胸からすそへと大きく左右にかっさばく。  ああ、またいつかの夜とおなじことが繰りかえされるのだ。いまに湿った粘膜が、からだじゅうはいまわるだろう……。  お小夜はなかば放心したような気持ちで、男のなすがままにまかせていたが、そのときだった。だしぬけに、はげしく雨戸をたたく音。 「三郎、話はここで残らず聞いた。御用だ、御用だ」  どうやら辰の声らしい。 「なに、御用……」  さすが厚顔無恥のくらげ大尽も、はっとひるんで、お小夜の胸から真っ赤にもえた顔をあげたが、そのとき、障子をひらいて風のようにとびこんできたものがある。  花扇だった。花扇は落ちていた匕首を手にとると、 「夫の敵、覚悟をおし」  いきなり、くらげ男の左の背中をめがけて、さっとばかりにふりおろした。 「あっ、花扇、と、とんだことを……」  雨戸をけやぶり、とびこんできた佐七をはじめ辰と豆六、これを見るとおもわずその場に立ちすくむ。  その三人のうしろから、とびこんできた、旅ごしらえの若い男が、くらげ男のからだをおしのけ、お小夜のからだを抱き起こすと、 「お小夜、これ、お小夜、おまえあやまちはなかったか」 「あれ、にいさん!」  お小夜はいそいでまえをかいつくろうと、藤太郎の胸にすがって泣きくずれた。  花扇は血に染まった匕首をそこに投げだすと、 「親分さん、逃げもかくれもいたしませぬ。こいつは夫を殺した敵でございます。しかも、わたしはそのかたきにおもちゃにされていたのでございます。あまりくやしゅうございますから、手にかけて殺しました。どうぞおなわをかけてくださいまし」  花扇は悪びれるところもなく、しとやかに畳に手をつき、きっぱりとこういいきった。  そばにはくらげ男のあの醜怪な肉塊が血にそまって、断末魔《だんまつま》の痙攣《けいれん》にくらげのようにふるえおののいている……。  次郎が殺された晩、お小夜が雨戸の外へとび出したあとから、藤太郎はなかへ忍びこんで、そこに次郎の死体と、血に染まった匕首を持ってまごまごしている三郎を発見した。  藤太郎もおどろいたが、そこへ駆けつけてきたお篠《しの》に泣きつかれて、三七二十一日たったら、お小夜を離縁して実家へかえすという約束と、いくらかの口止め料をもらって、秘密をまもる約束をした。  それのみならず、かれは死体の取りかたづけや、金びょうぶのしまつなども手伝ったのである  花扇は奉行所へひかれたが、夫の敵討ちということがはっきりしているうえに、あまり哀れな彼女の立場に同情が集まって、おとがめなしということになった。  藤太郎はそれからまもなく身持ちをあらため、両親のもとへかえったが、その藤太郎のもとへちかく嫁がくるという。  嫁の名はお扇、親元は大和家のお篠であった。  おそらく、じぶんの身を投げだしてお小夜の純潔を守りとおした花扇にたいする感謝の念が、藤太郎の胸に、恋となって育ったのであろう。  そのお小夜は、あくまで大和家の嫁として、兄の祝言がすむのを待って、お篠とともに沼津へくだるという。やがて、彼女のうえにも、あたたかい春がめぐってくるであろう。     座頭の鈴  因縁話鈴の来歴   ——血まみれ座頭のかたみの鈴  いつの世にも、たえないものはゲテ物趣味で。  人間、家もおさまり、身もおさまり、老後のうれいもなくなると、そろそろ頭をもちあげるのが、あやしげな骨董《こっとう》趣味で、やれ、芦屋《あしや》の茶釜《ちゃがま》だの、それ利休の袱紗《ふくさ》などと騒いでいるうちはまだよいが、これがしだいにこうじると、やがて長柄の橋のかんなくずだの、玉の井のかえるの干物だのと、あやしげなものを珍重するようになってくる。  それはその年の師走のはじめのこと。柳橋の柳光亭という料理屋で、やはりこういうあやしげなゲテ物趣味の会があった。  師走というのに、こんなのんきな会をしようというのだから、集まったのはいずれも大店《おおだな》のだんな衆。  ちかごろ手にいれた掘り出しものを、おもいおもいご披露《ひろう》におよぼうというわけ。集会は暮れ六つ(六時)ごろからはじまって五つ時(八時)には、じまんのたねもほぼ出尽くしたかたちだったが、なかにひとり、ニヤニヤわらっている御仁がある。 「さあ、さあ、伊丹屋《いたみや》さん、こんどはいよいよおまえさんの番だ。そう笑ってばかりいずと、じまんの掘り出しものを、ひとつ拝ませてくださいな」 「いや、このひとはたちがわるいよ。いつも、掘り出しものをしてきては、さいごに人気をさらっていくんだから。今夜もそのかおいろでは、なにか趣向がありそうだ。さあ、真打ちがでたり、でたり」  まわりから寄ってたかっておだてられ、いささか得意の鼻をうごめかしたのは、石町に老舗《しにせ》をもつ伊丹屋藤兵衛《いたみやとうべい》という大だんな。 「いや、そうおっしゃっていただくほどのものではありません。今夜のはごくつまらないもんで」  と、ひととおり謙遜《けんそん》はしたものの、得意の色はかくしきれないから、ほかのものはいよいよ黙ってはいない。 「さあ、とうとう伊丹屋さんの本音がでた。みなさん、覚悟はよいか」 「ええ、もうこうなったら仕方がない。伊丹屋さん、矢でも鉄砲でもだしてください」  はたからワイワイ騒ぎたてられ、それではと伊丹屋藤兵衛が、ふろしき包みをといてとりだしたのは、なんと一個の鈴ではないか。 「みなさん、ごらんください。わたくしがお目にかけたいというのは、じつはこの鈴なんで」  藤兵衛のしかつめらしい顔に、どれどれと、一同好奇の目をみはりながら、じゅんぐりにまわしたが、この鈴、べつに変わったところもない。  さしわたし三寸あまり、まるいふつうの鈴で、春駒《はるこま》の彫りもつきなみだし、音色だってたいしたものではない。 「伊丹屋さん、これは古いものですか」 「さあ、たいして古くもないでしょう」 「すると、この彫りが名人の作というわけで」 「なに、そうでもありますまい」 「はてね」  と、一同がけげんそうに首をかしげるのをみた伊丹屋藤兵衛、じぶんはよしとひざをすすめて、 「なにね、鈴そのものにはなんのへんてつもないんですが、じつはその鈴を手にいれたてんまつに、一場の物語があるんです」 「あ、なアるほど」  ひとをおどろかせることの好きな藤兵衛が、こよいの会にわざわざ持ちだしたからには、話というのはよほどかわっているに違いない。一同が、期待にみちたひとみをあつめていると、藤兵衛はポンとキセルをたたいて、 「じつは、その話をきいていただこうと思ってまいったんですが、そのまえにお願いがある。というのは、この話は、この場限りのことにしていただきたいので」  と、なにやら子細ありげなくちぶりなのである。  一同はいよいよ好奇心をもよおして、 「ええ、そりゃもう大丈夫です」 「そうですか。そう約束ができれば、わたくしも心おきなく話ができます。あれは去年の秋のことでした。わたくし箱根へ湯治にまいりまして」  と、はなし出したところを、 「そうそう、そのせつはおたのしみで」  と、話の腰をおられ、 「いえ、なに」  と、藤兵衛が顔をあかくして、ツルリとあごをなでたのにはわけがある。  藤兵衛には、お米《よね》といううつくしいお囲い者があって、去年の場合も、そのお米同伴だったことを、みんなにしられているからだ。 「その湯治からのかえりでした」  藤兵衛はまたもや半畳がはいるのを恐れるように、ことばをはやめて、 「神奈川《かながわ》にひと晩泊まって、さてその翌日、ついでといってはわるいが、川崎《かわさき》のお大師様へおまいりしようというわけ。ところが、つれの足弱が、まえの晩から少しからだぐあいを悪くして、しかたなしに、これは供のものをつけて、ひと足さきに品川まで送りとどけました。さて、そのあとはわたくしひとり、あいにく駕籠《かご》が出払っておりましたので、ままよ、江戸はちかいんだとばかり、徒歩《かち》でまあ、ぶじにお参りもすませたと思ってください。さて、それからブラブラやってきたのが鈴ガ森、あいにく、日もとっぷりと暮れました」 「なるほど」  話が佳境にはいってきたので、一同しいんと聞き耳をたてている。  座をとりもつ芸者たちも、むこうのすみにひと塊になって、聞くともなしにこの話をきいている。  外にはサラサラみぞれの音がしていた。 「みなさんもご承知のとおり、あのへんは、昼でも気持ちのよいところじゃない。おまけにバラバラ時雨さえもよおしてきました、こいつはいけないと、わたくしも思わず足を早めましたが、そのとき、かたわらの草むらのなかから、ウーム、ウーム……」 「あれ、気味のわるい」 「しっ、静かに。どうしました」 「わたくしもゾーッとしましたが、元気をだしてちかづくと、座頭がひとりたおれている。うなり声というのは、その座頭なんです」 「病気ですか。癪《しゃく》でもおこしたんですか」 「なんの、それが、土手ッ腹をえぐられて虫の息、あけにそまって苦しんでいるんです」 「ひえっ!」  一同はおもわず息をつめた。  藤兵衛もさすがにゾッとえりもとをちぢめると、 「いまだから、こうして話もできるんですが、そのときの怖かったこと。でもまあ、捨ててはおけぬので、いろいろ手をつくして介抱しましたが、寿命がなかったのか、まもなく息はたえてしまいました。ところが、息を引きとるまぎわです。その座頭というのが、苦しいなかから、胸にさげているのをひきちぎって、わたくしの手に握らせたのが、ほら、この鈴なんですよ」  一同おもわず、あっと、藤兵衛の手にした鈴をみる。  そのときだ。  向こうのほうできいていた芸者のなかから、フラフラと立ちあがって、それからまた、べったり座ったわかい妓《こ》があったが、話にむちゅうになっていた一同は、だれもそのみょうな素振りに気がつかなかった。  雪の中に血まみれ座頭   ——だんな、鈴をかえして下さい  いやな話だ。  いっそこんな話は聞かなかったほうがよかったと、悔やむしたからこみあげてくるのは、やっぱり好奇心なので。 「で、その座頭、なにかいいのこしましたか」 「どうして、どうして、虫の息で口もきけやアしません。鈴を握らせるのがやっとでした」 「なんのために、鈴をあなたにわたしたのでしょう」 「さあ、わたくしにもよくわかりません」 「で、そのこと、お届けしましたか」 「なんの、なんの」  藤兵衛はあわてて手をふりながら、 「なにしろ、旅の空で掛かりあいになっちゃつまりません。いずれだれかがみつけて届けてくれるだろうと、わたしはまあ、ねんごろに回向して逃げ出しましたが、あとできくと、座頭の名は紋弥《もんや》といって、小金をもっていたところから、悪者につけられ、あそこでバッサリやられたらしいということです。さて、この鈴ですが、わたしもなんとなく薄気味わるい。それに、どうしたものかその当座、この鈴はちっとも鳴らないんです。で、たんすの引き出しにしまいこんだまま、忘れるともなく忘れていましたが、先日ふと思い出して取り出してみると、ほら、ごらんのとおり、よく鳴るじゃありませんか」  藤兵衛がリーンリーンと鈴を鳴らせてみせたが、もうだれも口をきく気力もない。掛かりあいになるのを恐れるように、たがいにジロジロ顔を見あわせるばかり。  そのうちにひとりが、 「いや、伊丹屋さん、おもしろい話を聞きました。しかし、夜もだいぶ更けたようす。それに、どうやら表は雪になったらしいから、どれ、ここらでわたしはおいとまといたしましょう」  と、こそこそと立ち上がると、それを機会にほかのものもバラバラ立って、あとには藤兵衛ただひとり。  こいつすこし薬がききすぎたかと、藤兵衛もなんだかいやな気持ちになった。  ついうかうかと調子にのって、つまらないおしゃべりをしたのが、いまさらのように悔やまれてくる。 「ねえさん、わたしにひとつ舟をあつらえておくれ」 「はい、さっきよりお支度ができております」 「おや、そうかえ、そいつはよく気がついたね。どれ、雪でも見ながらかえりましょうか」  柳光亭のうらから出ると、川のうえにはまっしろな雪がくるめくように舞っている。 「おお、寒い、船頭さん、ご苦労さま」 「どういたしまして」 「おや、おまえはついぞ見慣れぬわかい衆だが、ちかごろ伊豆由《いずよし》さんへきなすったのかえ」 「へえ、ことしの秋から、やっかいになっております。吉蔵と申します。なにぶんよろしくお願いいたします」 「おお、そうかえ。それじゃまた、ちょくちょくとお世話になりますよ」  渡板《あゆみ》をわたって舟へはいると、こたつの用意もあたたかく、手酌《てじゃく》でいっぱいやれるように、杯盤の支度もできている。 「それじゃ、だんな、出しますよ」  と、ちかごろ伊豆由へ住みこんだという若いいなせな船頭の吉蔵、年のころは三十前後、どこやらに彫り物でもありそうなすごみな男だが、これがうんと棹《さお》を突っ張ろうとしたときだ。 「あれ、吉つぁん、ちょっと待って」  と、柳光亭の裏口から、息せききって駆けつけてきた女がある。さっき藤兵衛の話のうちに、みょうな素振りをみせた芸者だ。 「おや、駒代《こまよ》ねえさん、だんなになにかご用かえ」 「ええ」  と、駒代は屋形のなかをのぞきこみ、 「伊丹屋のだんな、送らせてくださいな」 「おや、おまえが送ってくれるのかい」 「ええ」 「でも、外はひどい雪だぜ」 「かまいません。わたしなんだか頭痛がしてなりませんの。少し川風に吹かれたいとおもいますから、よかったら送らせて下さいな」 「はて、そいつは豪気だ。しかし、あとでだれかにしかられやアしないか」 「あれ、まあ、いやなだんな」  駒代はやさしくにらむまねをしながら、藤兵衛のそばに座ると、 「ひとつ、お酌《しゃく》させてくださいな」  と、猪口《ちょこ》の水を切ってわたしたから、藤兵衛もすっかり気をよくしてしまった。  柳橋の駒代は、去年の春この里へでたばかりだが、もちまえの勝ち気と美貌《びぼう》がものをいって、またたくまに売り出して、いまでは押しもおされもせぬはやりっこ。そいつがむこうから味に水をむけるのだから、色気はないにしても、まんざら藤兵衛わるい気持ちじゃない。 「これはありがたい。おまえさんのようなきれいなひとがそばにいてくれると、酒もひとしおうまい。どれ、雪見酒としゃれようか。船頭さん、やっておくれ。祝儀はうんとはずみますよ」 「へへへ、だんな、お楽しみで」  吉蔵が棹《さお》を突っぱると、舟はするする岸をはなれて、やがてギイギイと櫓臍《ろべそ》のきしる音。  吹雪のくるめく隅田川《すみだがわ》を、ぬくぬくこたつにあたたまりながら、芸者の酌でいっぱいきげん、小唄《こうた》まじりでくだるなんて、まことにしゃれたものだった。 「駒代、おまえもひとつおやり」 「ええ。でも、頭がいたくって」 「いいじゃないか、ひとつぐらい。かえって頭痛がなおるかもしれないよ。それから、ひとつ、おまえの心意気でも聞きたいな」 「ええ」  駒代はさされた杯をうけると、きゅうに思い出したように、 「だんな、さっきはこわい話でしたことね」  と、じっと藤兵衛の顔をみる。 「なんだい。ああ、鈴の話かい」 「ええ、そう。だんな、あれはほんとの話ですか。鈴にかけて鈴ガ森、わたしゃだんなのしゃれじゃないかと思ったんですけれど」 「はっはっは、なるほど、鈴と鈴ガ森か。しかし、わたしゃそこまで気がつかなかった。ほんともほんと、正真正銘まちがいなしの話さ」 「まあ、こわいこと。それで、下手人はまだわからないんですねえ」  と、えりにあごをうずめた思案顔がただごとではないことに、藤兵衛もはじめて気がついた。 「おや、どうかしたかえ。おめえ、まさか、紋弥という座頭をしっているんじゃあるまいな」 「ほっほっほ、だんな、いやですよ、気味のわるい」  と笑ったものの、駒代の声にはなんとなく力がなかった。 「わたしはまだ、人殺しなど見たことはありませんが、ずいぶん怖いことでしょうね」 「そうさ。いいもんじゃないな。わかい座頭だったが、顔半分こう血だらけになって……」  と、藤兵衛が調子にのって、またもや仕方話のさいちゅうだった。  屋形の外でドスンと音がして、舟がグルグル揺れたから、駒代はびっくり。 「あれ、吉つぁん、どうしたのよ」 「すんません。櫓臍《ろべそ》が滑りゃがって。——なにしろ、こう寒くちゃやりきれませんや」  寒いのか、それとも、いまの話をきいていたのではあるまいか、声がブルブルふるえている。 「なんだね、船頭衆らしくもない。船頭というものは、どんな川風に身を切られたって、寒いなんてぐちをこぼすものじゃない」 「すんません」  と、吉蔵がコトコトと櫓をなおしているときである。駒代がふいにおびえたような目付きをして、 「おや、だんな、あの音は——?」  と、きっと藤兵衛の顔をみた。その目つきがじんじょうでないので、藤兵衛もついつりこまれて、 「なんだ、どうしたんだえ」 「ほら、あの音、リーン、リーンという音、あれ、鈴の音じゃありませんか」 「なに、鈴の音?」  と、藤兵衛もぎょっとしたように耳かたむけたが、なるほど、サラサラと障子をうつ雪の音にまじって、どこからかリーンリーンとさえわたった鈴の音がきこえる。 「船頭さん、どこかちかくに舟がいるのかえ」 「さあて、なんしろこの雪で、とんと見当がつきませんが」 「あの鈴の音はなんだろうね。だんだんこっちへ近づいてくるようだが」 「へ、へえ、ど、どうもうすっ気味の悪い」  吉蔵もガタガタふるえているらしかったが、ふいに、 「あっ」  というただならぬ声。 「ど、どうしたの、吉つぁん」  駒代があわてて、ガラリと障子をひらいてみると、そのときだ。  降りしきる雪のなかから、ぬっと出てきた一隻の屋形船。それが障子の外を流れるように通りすぎていったが、二隻の船がすれすれに舷《ふなべり》を接したそのせつな、むこうの屋形の障子がひらいて、ヌーッとこちらをのぞいたのは、顔半分血まみれになっためくらの座頭。 「だんな、鈴をかえしておくんなさい」  と、おがらのような手をのばしたから、藤兵衛も駒代も吉蔵も、わっとさけんで舟底にしがみついてしまった。  その晩から、藤兵衛はどっと寝ついてしまったのである。  救いのぬしは芸者駒代   ——鈴の中からポロリと指が 「というようなわけで、親分さん、おやじさまはそれいらい寝ついたきり、いまでもときどき、やれ、鈴の音がきこえるの、座頭の顔がみえるのと、暴れ出すしまつで、ほとほと弱りきっております」  神田お玉が池は佐七の住まい、あおざめた顔をしてすわっているのは、伊丹屋藤兵衛のひとり息子で与吉という。  年は二十四、石町かいわいでは業平《なりひら》息子といわれるくらいのいい男だが、わかいににあわずこれが堅物、おやじがわかいめかけをおいたり、へんなゲテ物を掘り出して喜んでいるのとははんたいに、もっぱら商法第一と、お店をひとりで切りまわしている。  されば、嫁の口は降るほどあるが、どういうものか、どれもこれも気にいらず、いまだ独身でとおしているという変わり者。  根がいたっての孝行息子だから、あの柳光亭のかえりいらい、藤兵衛が半気違いになったのを気に病んで、きょうはわざわざ佐七のところへ相談にきたのである。 「そいつはちょっとみょうな話ですね。しかし、あいてが幽霊じゃ、いかにあっしだって、手のつけようがありません」  佐七はなんとなくわりきれない表情だ。 「ごもっともで。しかし、親分さん、幽霊だとしたら、おやじさまの目だけにうつるはず。それを縁もゆかりもない駒代や、船頭の吉蔵の目にもちゃんと見えたというのですから、わたしはどうもふにおちません」 「そうさ、そこんところがちょっと妙だ。なんにしても、その場で幽霊をとっておさえなかったのが手抜かりでしたね」 「駒代という妓《こ》も、そういってくやしがっているんですが、なにしろ、おやじさまも、すっかりおじけづいているうちに、舟はスルスルと雪のなかに見えなくなってしまったそうで」 「べらぼうめ、吉蔵というやつも、意気地のねえやつじゃありませんか。いいわかいものが、座頭の幽霊ぐらいに腰を抜かしゃがって、へん、いい恥っさらしだあな」  俄然《がぜん》、がなり出したのは、おなじみのきんちゃくの辰、およそ江戸っ子をもって人類最高の人種とこころえている男のことだから、こんな話を聞くと、とても黙ってはいられない。  この時分、まだ豆六はいなかった。 「辰、おまえは黙ってろ」  と、佐七にきめつけられても、 「これが黙っておられますかい。ネタはちゃんとわかってまさ。柳光亭で、だんなの話をきいたやつらのなかに、だれかいたずらものがいて、ちょいとだんなをからかやアがったにちがいねえ。それにしても、こんなことを気に病むなんて、だんなもすこし気が狭すぎやアしませんか」 「いえ、わたしもさいしょはそう思いましたが、それがおかしいのでございます」  与吉はいよいよ顔をくもらせた。 「座頭の幽霊があらわれたのは、そのときばかりじゃございません。家のほうへも、ちょいちょい現れますんで」 「家のほうというと、石町のお店ですか」 「いえ、店のほうは女手がないので、おやじさまはちかごろずっと、鐘撞新道《かねつきしんみち》のほうにいるのでございますが」 「ああ、だんながお世話をしていらっしゃる……そうそう、お米《よね》さんとかいいましたね。へえ、そこへ幽霊が出るんですか」 「はい、このあいだも、お店の小僧で石松というのが、夜おそくそこへ使いにまいったところが、裏庭の塀《へい》のうえから、ヌーッと座頭の顔がのぞいたというので、大騒ぎをいたしました。柳光亭におあつまりのかたがたがいかにいたずらずきとはもうせ、まさか、こんなあくどいまねまでいたされようとは思われません」 「なるほど、こいつは道理だ。じゃ、まあ、とにかく、当たるだけあたってみましょう。で、この鈴はおあずかりしておいてもよろしゅうございますか」  そういって、佐七が取りあげたのは、もんだいの鈴である。与吉がなにかの参考にもとおもって、藤兵衛のところから借りてきたのだった。 「はい、どうぞ」 「もし座頭の怨念《おんねん》が、しんじつこの鈴にのこっているのなら、こんどは、あっしのところへ化けて出る番ですね」  佐七はおもしろそうに笑ったが、与吉は笑わなかった。なんとなく気の毒そうに、 「申し訳ございません。もしそんなことがあったら、こんどこそ、手厚く回向をしなければなりますまい」 「なあに、ようがすよ。うちにゃ辰五郎という豪傑がおりますから、たまにゃ幽霊くらい出てくれたほうが張りがあいがあります」 「まったくだ。ひっ捕らまえて奥山の見世物にしまさ」  威勢のいい辰のことばに、与吉もいくらか安心したように、 「師走の気ぜわしところ、恐れいりますが、それでは、なにぶんよろしくお願いいたします」  と、かえっていったが、そのあとで黙然と腕こまぬいて考えこんでいた人形佐七、思い出したように鈴の音色をきいていたが、ふいにハテナというように首をかしげた。 「お粂《くめ》、ちょっとその火ばしをとってくれ」 「あいよ」  お粂が火ばしをとってわたすニ、佐七はそれで鈴の割れ目をこじあけていたが、するとなかから、ポロリと落ちてきたものがある。  それを見ると、三人はおもわずあっと息をのんだ。 「辰、わかったかい。伊丹屋のだんなが、この鈴を手に入れなすった当座、すこしも鳴らなかったというのは、こいつがなかにつかえていたからだ」 「あ、なある。すると、座頭が伊丹屋のだんなに鈴をわたしたというのも、これを証拠に、下手人を捕らえてくれというなぞだったんですね」 「えらい、てめえもどうやら一人前になってきたな。ところで、ちょっと若だんなに尋ねたいことがある。てめえ、ひとっ走り追っかけてくれ」 「ようがす。遠くはいくめえ。じきつれてきまさあ」  辰はしりはしょってとび出したが、これがなかなか帰ってこないのである。 「チョッ、あの野郎、いってえどこまで行きゃがったんだろう」  しびれを切らして人形佐七が立ったり座ったり、しきりに舌を鳴らしているところへ、 「親分、た、大変だ」  あわをくってとびこんできたきんちゃくの辰、 「若だんながやられた」 「な、なんだと、若だんなが殺された?」  佐七がスックと立ち上がるのを、 「親分、ま、まあ、落ち着きなさい。やられたはやられたが、さいわい傷は浅手だ。いますぐここへきますから、まあじかに話を聞きなせえ」  いっているところへ、 「ごめんくださいまし」  と、なまめかしい女の声がして、はいってきたのは意外にも柳橋の駒代《こまよ》だった。 「辰五郎さんのおことばにしたがって、若だんなをおつれいたしました。さあ、若だんな、親分さんのところへきたからは、もう大丈夫でございますよ」  と、駕籠《かご》のなかの与吉に手をかすと、かいがいしくたすけ起こして、佐七の家へ遠慮がちにあがってくる。  お粂もこれを見ちゃ黙ってはいられない。  床をのべるやら、医者をよびに走るやら、ひとしきり大騒動だったが、さいわい与吉の傷は浅かったので、まもなく気力も回復した。 「いったい、これはどうしたことですね」  佐七にはまだなにがなにやらわけがわからない。  目をパチクリさせているのをみて、勝ち気な駒代がひざをすすめた。 「ほんにふしぎなご縁でした。いえ、なに、わたしが所用あって、お濠端《ほりばた》を通りかかりますと、にわかに人殺しという叫び声。おどろいて駆けつけてみますと、このおかたが倒れていらっしゃるのでございます。悪者はわたしのすがたをみて、いちはやく逃げてしまいました。それで、わたしが取りあえずご介抱申し上げているところへ、辰五郎さんがおみえになって、はじめてこちらが伊丹屋さんの若だんなだということを知ったのでございます。申しおくれましたが、わたしはかねがね、伊丹屋さんの親だんなさんにごひいきになっております、駒代というものでございます」  佐七はあっとおどろいた。なるほど、こいつはふしぎな縁である。 「若だんな、それで悪者というやつは、どんな男でございましたえ」 「さあ」  与吉はいたいたしくあおざめた顔をあげ、 「なにせ、とっさのことですからよくわかりません。お濠端を通りかかりますと、いきなり暗やみの中からとび出して、切りつけてまいりましたので。なにやら、鈴のことをいっていたようでございました」 「あ、すると、あの座頭の鈴を手にいれようと、おまえさんに切りつけたんですね。それについて、若だんな、おまえさんを迎えにやったのはほかでもない。これを見てもらいたいんだが」  と、白紙にのせて差し出したものをみて、与吉と駒代はあっとおもてをそむけた。 「あれ、こわい、親分さん、これは人間の指の骨じゃありませんか」 「そうですよ、こいつが鈴のなかから出てきたんです。若だんな、わかりますかえ。こいつはさいしょから骨じゃない。さいしょはりっぱな小指だったが、お宅のたんすのなかにあるうちに、肉がくさって、骨ばっかりになっちまったんです」 「でも、どうして、そのようなものが鈴のなかに?」 「座頭が食いきったんですよ。殺されるときに下手人の小指をね。そして、後日の証拠にもとおもって、鈴のなかへねじこんどいたんです。だから、親だんなにこの鈴をわたしたというのも、これを証拠に、下手人を探してくれというなぞだったんですよ」 「まあ、すると、親分さん、紋弥《もんや》、——いえ、あの座頭殺しの下手人は、小指がいっぽん欠けているんですねえ」  駒代はさっと土色になると、なぜかことばをふるわせて、憑《つ》かれたような目付きであった。  焼酎火《しょうちゅうび》を焚《た》く幽霊   ——怪談話の名人林家三治を知らねえか 「辰、てめえ、駒代という女をどう思う?」 「へえ」 「ありゃすこし妙だぜ。柳光亭で伊丹屋さんの話があってから、舟までついてきたところといい、またゆうべの一件だ。ああうまくお濠端《ほりばた》を通りかかるなんて、少しひょうそくがあいすぎる。ありゃア、だれかの後をつけてきたんだぜ」 「親分、ひょっとすると、伊丹屋の若だんなに切りつけたやつと、ぐるじゃありますまいか」 「そんなことかもしれねえな。いちどよく身元を洗わにゃならねえが、とにかくいちおう、鐘撞新道《かねつきしんみち》のほうへいってみよう」  伊丹屋藤兵衛の妾宅《しょうたく》は、さすがに、大店《おおだな》のおめかけの住まいだけあって、なかなかこったものである。  おあつらえむきの船板塀《ふないたべい》に見越しの松、それに藤兵衛が茶人だけあって、庭なども、このへんとしてはひろいほうで、よく手入れがゆきとどいている。  与吉がああいう災難にあったその翌日のこと。  きんちゃくの辰をつれて、佐七がブラブラとこの妾宅のまえを通りかかると、なかからとび出してきたのはせがれの与吉だ。 「親分さん、よいところへきてくださいました。じつは、また、ゆうべ一件もんが出ましたそうで」 「なに、ゆうべ出た?」 「はい、それで、おやじさまはもう気ちがいのようになっております。けさはやく迎えがきましたので、わたしは石町から駆けつけてきましたが、こんなことがかさなると、おやじさまはとても生きちゃいますまい」  そうでなくても、ゆうべのけがで弱りきっている与吉は、すっかり当惑したかたちだった。  話をきいてみると、ゆうべ夜中に藤兵衛が厠《かわや》におきると、庭のほうでボーっとあやしい火が燃えた。  おどろいて、ひとみをすえてよくよくみると、その火のなかにありありと浮かびあがったのがれいの血まみれ座頭の顔なので、藤兵衛はそのままウーンと気を失ってしまったというのである。 「なるほど、それじゃ、とても親だんなにはお目にかかれませんね」 「はい、いましばらく気がおちつくまでは、静かにしておいたほうがよかろうと、お医者さんもおっしゃいました」 「そうですか。仕方がありません。ときに、お米さんはいらっしゃいますかえ」 「はい、でも、父のそばにつきっきりで、とても手がはなせませんので」 「ほかに奉公人はいないのですか」 「いえ、ばあやがいるにはいるんですが、ゆうべは浅草にいるひとり息子が急病だとかいうので帰ってしまって、まだこっちへきておりません」 「そいつはおこまりでしょう。ときに、若だんな。だんなはともかくとして、ひとつ、その幽霊が出たというお庭のほうを見せていただけませんかえ」 「はい、どうぞ。いま、裏へまわって木戸をあけますから、どうぞ、ご遠慮なくみてください」  与吉に裏木戸をひらいてもらった人形佐七が、なかへはいると、なるほど、うわさにたがわぬりっぱな庭だ。むら消えの雪がところどころに残っていて、霜よけをした植木の刈り込みもよくいきとどき、小さなひょうたん池には風雅な橋さえかかっている。 「して、幽霊が出たというのは、どのへんでございますかえ」 「はい、あの」  与吉もそこまではしらぬとみえて、口ごもっているところへ、縁側から声がきこえた。 「はい、それは、その池のそばにある松の根方でございます」  ふりかえってみると、二十七、八のあだっぽい年増が、あおい顔をして縁側に立っている。すらりと背のたかい、小股《こまた》の切れあがった女だ。 「あ、これはお米さんですね」 「はい、お玉が池の親分さんですね、ご苦労さまでございます。よくよくお調べくださいまし。ほんに、きょうこのごろの幽霊騒ぎで、くさくさしてしまいます」 「ごもっともで。しかし、なアに、いまにらちをあけてお目にかけますよ」  おしえられた松の根方をしきりに見まわしていた佐七は、ふと地面に落ちている黒いものに目をつけた。それから、ヒクヒクと小鼻をうごめかして、そのへんをかぎまわっているようすに、お米は下駄《げた》をつっかけてそばへくると、 「親分さん、なにかございましたか」 「いえ、なに、ときに、お米さん、けさだれかこのへんを掃きましたか」 「あら、いいえ。それどころじゃございませんわ。あの取りこみのうえに、ばあやがまだかえってまいりませんもの」 「そうですか。いや、べつになんの手掛かりもないようです。もっとも、あいてが幽霊じゃ、手掛かりのないのがほんとうでしょう。ときに、若だんな」 「はい」 「なんにしても、親だんながご病気とあれば、あとは女ばかり、はなはだ不用心です。お店からだれか若いものをよこして、泊まらせるようにしたらよろしゅうございましょう」 「はい、そういうことにいたしましょう」  なんとなく不安そうな与吉とお米をあとにのこして、佐七はふたたび裏木戸から外へでたが、すると、きんちゃくの辰が声をひそめ、 「親分、なにかわかりましたかえ」 「ふむ」 「あれ、いやだな。あっしにまで隠さなくてもいいじゃありませんか。いやに小鼻をヒクヒクさせていましたが、あの黒いものはなんですね」 「はっはっは、見ていたか。そう知られちゃしかたがねえ。じつは妙なことに気がついたんだが、辰、ゆうべ真夜中にもえた幽霊火というなア、ありゃおめえ、焼酎火《しょうちゅうび》だぜ」 「え? 焼酎火?」 「そうさ。あの黒いものは、焼酎火のもえかすさ。べらぼうめ、芝居のお化けじゃあるめえし、どこの世界に、幽霊が焼酎火などたいて出てくるやつがあるもんか。たいてえこの狂言はよめてらあ。なあ、辰、てめえ、林家三治というはなし家を知っているかえ?」 「林家三治? 知ってますよ。しかし、親分、それがどうかしましたかえ?」 「こん畜生、まだ気がつかねえのか。林家三治というやつは、はなし家にゃにあわねえいい男でよ、とんだ女たらしだという話だ。おまけに頭はくりくり坊主でよ、ヒュードロドロの怪談話はあいつのおはこだ」 「あっ、それじゃあいつが」  と、辰もおもわず息をのんだ。  文化から文政へかけては、大南北の出現でもわかるとおり、江戸の世界は怪談の大流行、そういう時世に乗じてあらわれたのが、高座の怪談ばなしで、林家三治というのはとしは若いが、その名人だった。 「三治はたしか、いま、神田の紅梅亭へでているはずだ。ひとつこれからいってみよう」 「しかし、親分、三治がなんだって、座頭の幽霊のまねなんかするんです」 「いや、これはおれの当て推量だけどな。若いいい男の芸人と、器量よしのおめかけだ。そこになにかあってもふしぎはあるめえ」 「なるほど。それじゃ、お米はだんなの目をかすめて、三治とよろしくやってると……?」 「そこがそれ、当て推量だから、はっきりとはいいきれねえが、あの焼酎火が気にかかる。おれの当て推量があたっていれゃア、この幽霊さわぎの作者はお米だぜ。おおかた、だんなから座頭の話をきいて、じぶんの情人《いろ》にいいふくめ、座頭の幽霊をやらせているんだ」 「だんなをそれで、おびえて、おびえて、おびえ死にさそうというわけですかえ」 「おおかたそんなことだろう。だんなが死にゃお米のやつに、あの家屋敷のほかに、たんまり手切れ金がもらえることになってるんだろう。そうなりゃ、はれて三治を引っぱりこもうというさんだん。あの家屋敷だけだって、どうして、たいした値打ちもんだあな」  だが、その三治は紅梅亭にもいなかった。本所の裏店にある三治のうちにもきんちゃくの辰を走らせたが、三治はゆうべからかえってこぬという。  佐七はなぜか、いやな胸騒ぎがしてならなかった。  芸者駒代と船頭吉蔵   ——屋形のなかへきておくれ  柳橋、みよし野と書いたご神灯のあがった軒先、みがきこんだ格子をひらいて、 「今晩は、駒代さんはうちかえ」 「おや」  と、内箱らしい中年増が佐七の顔をみて、 「これはお玉が池の親分さん、あいにく駒代さんはいませんが」 「お座敷ですか」 「いいえ、それがね、なんだか頭痛がするから、川風にでも吹かれてこようって、舟をあつらえて出ていきました」 「はてね、この師走の寒空に、そいつは風流なことだが、そして、その舟というのは?」 「代地河岸の伊豆由《いずよし》さんの舟でございます」 「おお、そうかえ、そいつはありがとう」  みよし野をとび出した人形佐七、なんだか気になってたまらない。  きょういちにち、足を摺粉木《すりこぎ》にして探しまわったが、林家三治のいどころはわからない。  しかし、だいたい佐七の読んだとおりではないかと思われるのは、三治はちかごろ、えろう金のくめんがよいそうである。  いずれどこかに金づるでもめっけたらしいが、三治がそれをひたかくしにかくしているところをみると、あいては人妻か、ぬしあるお囲いものかなんかにちがいないと、そこは芸人仲間のおか焼きもまじってべらべらしゃべるのをきいたから、佐七の当て推量もまんざら当て推量でもなさそうになってきた。  しかし、かんじんの当の本人がつかまらないのでは話にならない。困《こう》じはてたあげく、ふと思いついたのが駒代のこと。  じつは佐七にも、駒代がいったいこの事件とどんな関係があるのか見当もつかない。しかし、三治のいどころがわからぬいま、とにかくいちおう当たってみようと、みよし野へやってきたところが、駒代は舟を仕立てて川へ出たという。 「辰、どう思う。こいつは少々おかしいぜ。この師走の忙しいなかを、とんだ風流だ。これにゃなにかわけがなくちゃなるめえ」 「親分、伊豆由の舟といやア、ひょっとするとこのあいだ座頭の幽霊に出会った舟じゃありますまいか」 「ふうむ、いいところへ気がついたな。とにかく、伊豆由へいってみよう」  伊豆由できいてみると、はたして、このあいだとおなじ吉蔵の舟だという。 「辰、こりゃいけねえ。おりゃ妙に胸騒ぎがしてきた。おかみさん、すまねえが一隻仕立てておくんなさい。ひとつあとを追ってみてえが、舟はどっちの方角へいったえ」 「たしか、上へのぼったと思います」 「よし、それじゃ辰、てめえもきねえ」  日はもちろん暮れはてていた。  舟を仕立てた人形佐七、伊豆由から借りてきたちょうちんをたかくふりかざして、くまなく川のうえに目をくばっている。  さいわいきょうは星月夜、ひろい川面《かわも》はさえかえって、凍りついた銀色に光っている。  おまけに季節が季節だから、たいして舟も出ていないのが好都合だ。 「おい、若い衆さん、おまえさん、じぶんちの舟だから、ひとめ見たらわかるだろうね」 「へえ、そりゃ如才ございません。おおかた、首尾の松あたりにいるんじゃないかと思います」 「おお、そうか。じゃ、急いでやってくんねえ」 「ところがねえ、親分」 「なんだ」 「仲間のたな卸しをするのもなんだと思ったから、あっしゃいままで控えていたんですが、あの吉蔵というのはくわせもんですぜ」 「くわせもんというと」 「あいつは入れ墨もんですぜ」 「入れ墨もん……?」 「へえ、そうなんで。あいついつも右の腕に布を巻いておりますが、いつか、その布が解けたところをちらとみたら、墨が二本はいってましたよ」  佐七は辰と顔見合わせた。 「どうせこちとらの仲間にゃいろんなやつがまぎれこんでます。あっしだって大きな口はたたけませんが、入れ墨もんは困ります。それにもうひとつ、あっしの気にくわねえのは、野郎、左の小指が一本欠けてるんです」 「な、な、なんだとう? 左の小指が欠けてる……?」 「そうなんです。それについて、いつかあっしが尋ねたときの野郎の顔色ったらなかったんです。おや、親分、どうかなさいましたか」 「いや、いいんだ、いいんだ。しかし、若い衆さん、その小指のねえ入れ墨もんの吉蔵と、駒代と、なにかわけでもあるのか」 「まさか。そんなことおっしゃると、駒代ねえさんがかわいそうですよ」 「どっちにしても、大急ぎで吉蔵の舟を探してくれ、大急ぎだ、大急ぎだ」  佐七にもまだハッキリ事情はのみこめないが、なにかしら容易ならぬ事態が切迫しているような気がして、いても立ってもいたたまらない。  辰もおなじ気持ちだろう。  きっと舷《ふなべり》に片足かけ、油断なくあたりを見まわしている。  話かわって、こちらは駒代をのせた吉蔵の舟だ。首尾の松へんまでやってくると、 「ちょいと、船頭さん、こちらへはいってきておくれな」  と、屋形のなかから駒代が声をかけたから、 「ねえさん、なにかご用ですかえ」 「なんでもいいから、こっちへはいってきておくれな。おまえさんにちょっと聞きたいことがある」 「ご冗談でしょう、ねえさん、あっしがいまこぐのをやめて屋形へはいりゃ、舟はどんどん流れてしまいますぜ」 「流れたってかまわない。あたしゃおまえさんに話があるから、ちょっとこっちへはいってきておくれな」 「ねえさん、あっしを口説こうてえんですかえ。そんならこんな舟の一隻や二隻流したってかまいませんが」 「なにをバカなことをいってるんだねえ。うぬぼれるのもいいかげんにおし。とにかく話があるから、こっちへはいってきておくれよ」  ぐずぐずしてると、立って、こっちへ出てきそうな気配に、 「へっへっへ、そんなにまでおっしゃって下さるなら……」  流れないように櫂《かい》を櫓臍《ろべそ》へおくとき、船頭の吉蔵は、すばやく川のあちこちを見まわしたが、さいわいあたりに舟のすがたは見当たらない。  吉蔵はにやっと笑って舌なめずり、いや、その目つきのすごいこと。  こもの中は血まみれ死体   ——こいつは弟の敵でございます 「ねえさん、なにかご用ですかえ」  吉蔵が屋形のなかへはいってくると、そこにはこたつがおいてあるが、駒代はこたつへもはいらず、きちんと端座したひざに両手をおいて、きっと吉蔵を見すえる目は、針のようにとがっている。 「ちょっとおまえさんに聞きたいことがあるんだがね、そこへまあお座りよ」 「へえ、お聞きになりてえこととおっしゃいますと……?」  吉蔵は屋形のすみにひざをつくと、神妙に両手をひざにおいているが、その目はなめるように駒代のふくよかな胸のふくらみから、少しすべって、腰のあたりをながめている。  舌なめずりをするような目つきだった。 「聞きたいというのはほかでもないんだがね、おまえさん、その左の小指はどうおしだえ」 「へえ、これでございますかえ」  おどろくかと思いのほか、吉蔵は平気で小指のいっぽん欠けた左手を突き出すと、 「ねえさん、そんなことをきいて、おまえさん、どうなさるおつもりでございますえ」 「どうでもいい。あたしゃただ、その小指をどうしたのか、それをおまえさんに聞きたいのさ」  吉蔵はうわめ使いで駒代の気負いこんだ顔をみていたが、にやりと薄気味わるいわらいをもらすと、 「まあ、よしましょう。これはねえさんとなんの掛かりあいもないことでございますからねえ」 「いえないとおいいかえ」 「悪く思わねえで。これはあっしの秘密でさあ」 「ああ、そうなの。それじゃその指のことは聞かないかわり、ほかのことを聞かせてもらうよ。おまえさん、いつか伊丹屋のだんなを送っていくとき、すれちがった舟のなかから血まみれ座頭が顔を出して、だんなに鈴かなんかのことをいったとき、たいそうおびえておいでだったが、おまえさん、なにか血まみれ座頭についてしってるんじゃないか」  吉蔵は答えないで、ただじろじろと駒代のからだをなめるような目でみつめている。  気のつよい駒代は、しかし、じぶんのいまおかれている危険な立場も忘れてしまって、 「そればっかりじゃない。あれいらい、あたしゃおまえさんに目をつけて、それとなくあとを付けまわしていたんだよ。そしたら、おまえ、濠端《ほりばた》で伊丹屋の若だんなをおそったね。そのときおまえ若だんなに、鈴をどうしたとか、こうしたとかいったそうじゃないか。その鈴とはなんのことだえ」  吉蔵はあいかわらず無言である。なめるようなかれの視線は、しだいに下へすべっていって熱を増す。 「いえないのかい、いえなきゃあたしがいってあげるよ。おまえさん柳光亭の会へ出ただんな衆から、鈴ガ森の座頭殺しをきいたんだろう。そして、そのとき伊丹屋のだんなが座頭から鈴をひとつあずかったということをきいて、その鈴をとりもどそうとしてるんだろう。吉蔵さん」  と、駒代の声が巽《たつみ》あがりにかん走って、 「あの鈴のなかからは、食いちぎられた小指の骨が出たんだよ。吉蔵さん、座頭の紋弥を殺したのはおまえだね」  吉蔵の視線がうえへすべって、ふしぎそうに駒代の顔をみると、 「ねえさん、おまえ、えろう気をたかぶらせているようだが、よしんばおれが紋弥とやらを殺した下手人だとしても、それがおまえさんと、いってえどういう掛かりあいがあるんだえ」 「紋弥は……紋弥はあたしの弟だよ……」  さすがに吉蔵も、これにはぎょっとしたふうで、しばらく穴のあくほど駒代の顔を見ていたが、やがてにやりとホロ苦く笑うと、 「なるほど、それで弟の敵討ちをしようというわけか。しかし、それにしちゃねえさん、いやさ、駒代さん、おまえも無鉄砲な女じゃねえか。ひとけもねえこの水の上、おれがおまえをこの舟で殺してしまえばどうするんだ」 「ほっほっほ、そんなことできるもんか」 「どうしてさあ」 「だって、あたしがおまえの舟で出たことは伊豆由さんではしってるよ。あたしを殺せば、すぐ足がつくじゃないか」 「おまえの死骸《しがい》におもりをつけ、海中ふかく沈めたら……? それに、おらアもう伊豆由へはけえらねえつもりだ」 「えっ?」 「駒代、おまえもうかつな女だな。おまえのうしろにあるこも包み、そりゃアいったいなんだえ」  駒代ははっとうしろをふりかえった。  なるほど、そこには大きなこも包みがころんでいる。  屋形船にはふにあいな代物で、駒代もこの舟へはいってきたときから気がついていた。  しかし、ひとつことを思いつめていた駒代は、いままで深くも気にとめていなかったのだ。 「ひとつ、そのこも包みのなかをのぞいてみろ。いいから、のぞいてみろというんだ」  つよいあいての気魄《きはく》に圧倒されて、駒代はぎょっと息をのんだ。すこしひざをにじらせて、こも包みのはしに手をかけ、そっとめくってみたとたん、 「あれえッ!」  と叫んで、ひしとばかりにたもとを顔におしあてた。  こも包みのなかには、世にもおそろしいものがくるんであった。そのとたん、船頭の吉蔵が、こたつをまたいでひとっ跳び、駒代のそばへやってくると、やにわにそのからだを抱きすくめた。 「どうだ、駒代、わかったか。おれはゆうべ人殺しをしてきたのよ。その死体におもしをつけて、これから沖へ沈めにいくところよ。それをおまえに見られたからにゃ、生かしちゃおけぬと思いねえ」 「悪党、悪党、それじゃ紋弥を殺したのも……」 「そうさ、おれさ。これもなにかの因縁だろう。弟を殺したそのうえで、姉まで殺そうとは思わなかった。とんで火にいる夏の虫たアおまえのことよ」 「弟の敵、覚悟おし……」  ふところ深くかくし持った匕首《あいくち》を抜こうとしたが、その手はいちはやく吉蔵にさかてにとられて、匕首は鞘《さや》ごと駒代の手をはなれて、吉蔵の手にもぎとられてしまった。 「女だてらに刃物三昧《はものざんまい》、しゃらくせえまねはよしたがいい。それより、死んでいくまえに、ここでいちばんおれに振る舞いねえ」 「あれ、なにをするんだよう」  渾身《こんしん》の力をふりしぼって抵抗したが、しょせんは男と女の力である。  駒代は仰向けにおしころがされ、うえから餓狼《がろう》のような吉蔵の顔がおっかぶさってくる。 「殺せ、殺せ、ひとおもいに殺しておくれ」 「いわなくたって殺してやるさ。だが、そのまえにこってり楽しませてもらうよ」  しかを追う猟師山をみずというが、いまの吉蔵がそれだった。  やわらかい駒代の膚をしたに抱きすくめて、吉蔵はカーッと逆上していた。  そのこと以外、なにを考える余裕もうしなっていた。  匕首をとりあげてしまえばこっちのものだと思いこんでいたが、あにはからんや、女にはかんざしという武器があった。  吉蔵がこたつをふみこえてきて、駒代のからだを抱きすくめたとたん、銀の平打ちが髪からぬけて床に落ちていた。うれしや、そのかんざしが駒代の手にさわった。  うえから女を抱きすくめ、女のすそに手をやった吉蔵は、それ以外のことは考えなかった。  とうとう女の下半身はむきだしにされてしまった。  えたりとばかりに吉蔵が思いをとげようとしたとたん、やにわに下から手をのばした駒代が、左の腕で男の首を抱きすくめた。と同時に、右手に銀の平打ちをさか手にもって、骨をもとおれと男の盆の窪《くぼ》めがけてふりおろした……。  こちらは佐七を乗せた舟である。  待乳山《まつちやま》がくろぐろ見えて、川風はのぼるにしたがって膚につめたい。  行き交う舟のかずもすくなく、ギイギイと櫓臍《ろべそ》のきしる音だけが寂しい。  まもなく首尾の松がむこうにみえてきた。 「親分、むこうにいるのがそうじゃないかと思いますがね。変ですね。あかりもつけねえで、吉の野郎、どうしやアがったんだろう」 「どれどれ」  すかしてみると、なるほどむこうに一隻の舟がブカブカ水に浮かんでいるが、船頭のすがたは見えなかった。 「はてな、あの舟は流れっぱなしじゃねえのか」  つぶやいたときだった。ふいに屋形のなかからヒーッという男の悲鳴、つづいて、男と女のわめく声がきこえたかと思うと、とたんに屋形船の障子をやぶって、だれかがざぶんと水にとびこんだ。 「それ、辰」  佐七のことばをきくまでもなく、辰はくるくると帯を解くと、ふんどし一本の素っ裸、ざんぶとばかり水のなかへとびこんでいた。  それをしり目に、人形佐七がむこうの舟へとびこむと、屋形のなかはあたりいちめん唐紅、そのなかに吉蔵が七転八倒の苦しみだった。  吉蔵は盆の窪《くぼ》をえぐられて、あっとばかりのけぞるところをむき出しになった下っ腹を、ところかまわずえぐられたのである。  まったくこうなると、かんざしもさか手にもてばおそろしい。 「吉蔵、どうした、どうした」  といっているところへ、きんちゃくの辰が水にぬれた駒代を抱いてきた。駒代は案外気がしっかりしていて、 「親分さん、弟の敵でございます。鈴ガ森で殺された弟紋弥の敵でございます。そいつの左手の小指をごらんくださいまし。それから、そいつはゆうべもどこかで人殺しをしてきたらしく、親分さん、そのこもづつみのなかをごらんください」  駒代のことばにおどろいて、佐七がそこにころがっているこもづつみをひらいてみると、なんとなかから出てきたのは、一個の死体ではないか。  しかも、それこそきょう一日、佐七と辰が足を摺粉木《すりこぎ》にして探しまわった林家三治。  顔半面、紅でいろどった座頭の幽霊は、もののみごとに土手っ腹をえぐられて死んでいるのであった。  ミイラ取りがミイラに   ——柳橋の駒代という雌ぎつねが 「いや、もう、とんだこみいった事件でしたねえ」  一件すっかり落着したのち、親子づれで礼にきた伊丹屋藤兵衛に、佐七はうつくしいえくぼをみせて笑った。 「つまり、お米は以前から、林屋三治と情を通じていたんですね。ところが、去年もちあがった紋弥殺し、だんながその場にいきあわせ、鈴をおあずかりになったのはよかったが、なんとなくそのことを苦に病んでいらっしゃるのにつけこんで、三治を座頭の幽霊に仕立てたんです。そこは三治も商売ですからね、だんながおびえなすったのもむりはございません」 「いや、親分、面目しだいもない」  きょうばかりは伊丹屋藤兵衛、肩をすぼめて小さくなっている。 「ところが、そこへ妙なやつがとびこんできた。妙なやつというのがあの吉蔵で……」  吉蔵は以前にも悪事をはたらいて島送りになっていたが、文化十二年は権現様の二百年忌、大赦があって島からゆるされた吉蔵は、そのかえりがけ、鈴ガ森で紋弥に出会った。  いったい、座頭というのは盲人の官位で、盲人の官位には四階級あって、うえから順に検校《けんぎょう》、別当、勾当《こうとう》、座頭となっていた。ところが、泰平の御代もながくつづくと、世の中万事金しだいで、盲人の官位なども金で買えたものだそうである。  ひとくちに検校千両といったもので、いちばん低い座頭の官位でも百両はしたものだそうな。紋弥は姉の駒代が身を売った百両をもって、京都へ官位をうけにいくとちゅう、鈴ガ森で吉蔵にあって殺された。  そのとき、吉蔵は左手で紋弥の口をふさぎ、右手で紋弥をえぐったのだが、苦しまぎれに、紋弥があいての小指を食いちぎった。  吉蔵はいたさにたえかね、金をうばうといったんはその場を逃げ去ったが、あとで気になったのが小指である。  紋弥の口にのこった小指から足がついてはならないと、しばらくして引きかえしてきたが、そのときにはもうすでに、紋弥の口に小指はなかった。  その直前に藤兵衛がいきあわせて、鈴をあずかったというわけである。  だから、吉蔵として小指のゆくえがしじゅう気になっていたにちがいない。 「ところが、いっぽう駒代ですが、柳橋で芸者をしながら弟の敵をさがしていたが、いつぞや柳光亭のかえりがけ、座頭の幽霊を見たときの吉蔵のおどろきかたがただごととは思えなかったので、それいらい、ひそかにあいつをつけていたんですね」 「そのおかげで、わたしが危ないところを助かったというわけですね」 「そうです、そうです。それで駒代の疑いはいっそう深くなってきました。そこへもって、あっしの口から、紋弥殺しの下手人は小指を食い切られているにちがいないと聞いたから、とうとうああして舟でつれだしたんです」  ところが、そのまえの晩、吉蔵の身にもたいへんなことがあった。  与吉をおそって失敗した晩、かれはお米の妾宅《しょうたく》へしのびこんだ。  かれはまだ鈴のなかから小指が発見されたことを知らなかったので、あくまでそれを取りかえすつもりであった。  ところで、そこで出会ったのが三治のにせ幽霊、悪いやつでも幽霊はこわかったとみえ、前後のふんべつもなく、夢中でどてっ腹をえぐってしまったのである。  ここで困ったのはお米だ。幽霊の正体がわかれば、じぶんの狂言もばれてしまう。  そこで、脛《すね》に傷もつ男と女、その場で妥協が成立した。どうせ男と女の妥協といえば相場がきまっている。  しかも、あいてはまむしのような吉蔵だ。こんなやつに弱みを握られたらただではすまない。  さいわい、藤兵衛は気をうしなっている。  吉蔵はいやおうなしにお米を抱いて自由にした。  その交換条件として、三治の死体をひとしれず海の底へしずめてしまおうというのだから、林家三治こそいい面の皮だった。 「ですから、この一件の殊勲甲は、なんといっても駒代ですよ。駒代がいなきゃ、三治殺しの一件は、やみからやみへほうむられたかもしれませんからね」 「いや、親分、面目しだいもございません。これに懲りて、こののちは、せがれを見習い、堅いいっぽうになるつもりです」  と、伊丹屋藤兵衛、すっかり閉口頓首《へいこうとんしゅ》の顔色で、かえってそばから堅蔵の与吉が、 「おやじさま、そう老いこまれては困ります。なにも世間には、お米みたいな女とばかりは限りますまいに」  と、口をきわめてなぐさめたという。  そのお米は、牢《ろう》にいるあいだに病死した。吉蔵は駒代にえぐられた傷のいえるのを待って、あらためて引き回しのうえ獄門になった。  駒代は弟の敵討ち神妙なりとあって、なんのお構いもないどころか、これがためにパッと人気が立ったが、それから三月ほどのちのこと。  ある席で、佐七が伊丹屋藤兵衛にあうと、 「親分、また困ったことができました」 「困ったこととおっしゃいますと……?」 「いや、わたしはあれいらい、ほら、このとおり数珠を片手に行いすましてるんですが、ミイラ取りがミイラになりましたので」 「とおっしゃいますと……?」 「いや、なに、こんどはせがれめが極道をはじめましてな。なにせはじめて女の味をしったもんですから、家を外の放蕩三昧《ほうとうざんまい》、いや、困ったもんでございます」 「あのお堅い若だんなが……? そして、あいてはどういう女で?」 「それがな、親分もご存じだろうが、柳橋の駒代という雌ぎつね、あの雌ぎつねにすっかり鼻毛をよまれてしまいましてな。また、雌ぎつねも雌ぎつねで、あの朴念仁《ぼくねんじん》のどこがようてか、若だんな、若だんなと鼻を鳴らしてもてなすもんだから、いや、石が流れて木の葉が沈むとはこのことでございます」  伊丹屋の大だんなの藤兵衛さん、困っているのか、よろこんでいるのか、数珠つまぐって、にたアりにたアりとごきげんだったという。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳(巻十六)◆ 横溝正史作 二〇〇四年四月二十五日 Ver1